Summer 7th Heaven
僕は顔に乗せたままの日記を胸元までずらし、窓の外に目を向けると、雨が打ちつけているのに気が付いた。
空はすっかり暗くなっていて、未だに推理に精を出すマナトの顔がガラスに写り込んでいる。
全て木張りになっている、広いとはいえない区切られた空間。
今までにどれだけの人の旅を助けてきたのか、歴史を感じる造りになっていた。
たくさんの人を乗せたであろう軌跡がいくつも残されている。
2つの名前の間に刻まれたハート、1979年1月22日。柱には小さな背丈キズもついてある、こちらもかなりの年季が入っている代物だ。
狭い部屋は2人部屋となっており、寝返りが打てないほどの狭いベッドが、椅子が1脚置けるほどの隙間しかない対面に設置されてあるだけで、テーブルなんてものは窓の下に小さく飾りの様に突き出しているだけだった。
僕はマナトの方に目を向ける。
「・・・ミャーって猫が泣く時っていつ?鳴くじゃなくて泣く?変じゃね?ニワトリならわかりやすかったのに・・・」
マナトはブツブツと独り言のように呟いているが、その内容は酷いものになっていた。
「何か食おうぜ、腹減った」
この提案は僕だ。
ゆっくり僕に向けられるマナトの顔は、憑かれたような顔だ。
重い腰を持ち上げると、マナトはフラフラと僕の後を追って、食堂車両に向かった。
「それにしてもよ、お前いったいどんな約束したわけ?それを忘れてるお前って・・・どうよ?」
「俺に聞くな。」
「じゃ、誰に聞くんだよ・・・」
「本人にきけ」
「本人って・・・お前じゃん?お前がその本人だろ?何怒ってんの?逃げ場はもうないんだし、彼女をここまで追い詰める程の何かを忘れたお前が悪い!」
「んで、また俺のせいかよ・・・」
「とりあえず、お前は彼女との約束か何かを思い出すことに集中した方がいい気がするな、俺は」
そう言われても、幼少の記憶を辿るには、キッカケも必要だった。
あの場所に行けばきっと何か思い出す・・・
いや、やっぱりこう言おう・・・
至難の業だ。
僕は深いため息をつき、売店の若い女性からお釣りを受け取った。
食堂車両は想像以上に空いていた、品のよさそうな老カップルと、がたいの良いアイルランド人男性が子供の汚れた口を不器用な手つきで拭っているだけだ。
マナトは早くも、上機嫌で売店の女性を笑わせているが、いったいどういう魔術を使えばこんな風になれるのか?油断も隙もないとはこの事だ・・・と、僕はその女性に無愛想に軽く頭を下げると、マナトの服のフードを引っ張って連れ戻した。
再び腹がいっぱいになると、マナトはハァーっと深いため息をつき、ベッドに倒れ込む。
しばらくすると、怪獣のようなイビキと共に動かなくなった。相当疲れていたのは言うまでもなく、毛布を軽く掛け直して、しっかり手に握られていた走り書きを、マナトの手からそっと抜きとった。
“行くべき場所リスト ”と、書かれてある。
僕はベッドに腰掛けて、暫くそんなマナトを眺め、窓の外に目をやった。
雨は更に激しくなって、列車の窓に打ちつけている。
明日は晴れるかな?
この先どうなるのだろうか?
ミューが見つからなかったら?
言い知れぬ不安が次々と襲いかかってくると眠れなかった。
マナトを起こさないように、ソッとベッド脇を通り過ぎ、狭い通路に出て窓の前に腰掛けると、ここにも疲れた顔の男が窓に映っていた。
この顔。
母さんに似ている所を探すのに、その顔を必死で思い浮かべ様とする。
だけど、どんな笑顔だったかも、思い出せない。
僕は改めて自分が不甲斐ない息子な事にため息をついた。
窓が小さく曇る。
僕は諦めてゆっくり立ち上がると、ベッドに体を無理やり寝かせつけることにした。
そうすると、体は正直で、目を閉じただけで、本当は必要としていた眠気が嫌味なほど襲ってくる。
僕は、マナトのイビキの気にならない眠りの世界へと吸い込まれていった―。
“あの歌を歌って。
私たちは大丈夫って歌。
あの青い香りに包まれて、
その先を眺めていたいの。
貴方と一緒に。
これは始めの一節。
諦めない強い瞳と共に
貴方を応援する歌・・・“
ガタッという揺れで、僕が目を覚ますと、列車の窓から美しい光が射していた。
部屋を出た廊下の、ちょうど僕が眠りに就く前に腰かけていた場所だ。
その光の前で、窓の外を眺める誰かが座っている。
「マナト?」
僕は眠い目を擦りながら、ゆっくりベッドに起き上がる。
もう朝なのか?
その人物は僕に気づいたのかゆっくり立ち上がった、窓から差し込む太陽の逆行が激しくて、よく見えない。
その細い線からすると、マナトじゃない様だ。
僕に何か話しかけている。
「あの、すみません聞こえなくて・・・」
僕は恐る恐るベッドから立ち上がると、その人影に近寄った。
その瞬間、人影が勢いよく振り返り、辺りの光が一瞬にして消え去った。
真っ暗だ。
不審に思った僕はすぐさま辺りを見回してみる。
真っ暗闇に覆われて、自分がどこに立っているのかさえもわからなかった。
フト、もう一度人影に目を移すと僕はハッとした!
髪をなびかせて、振り返ったはずのその姿は、奇妙な事に・・・
後ろ姿のままだ!!
飛び上がった僕を、彼女は後ろ姿のまま僕の方に勢いよく襲いかかってくる!
掴みかかろうと僕の腕に触れようとした瞬間、その姿はユラユラ揺らいで、ついにはバシャッと音を立て、水のように僕の足元に広がった・・・。
「・・・ぃ、ぅおいって!」
僕はハッと目を覚ました。寝台列車のベッドの上だ。
マナトは両手にインスタントコーヒーを持ったまま、今まさに蹴り上げようと、僕に向かって足を振り上げたまま僕を見下ろしていた。
「彼女は!?」
僕はベッドから飛び上がると、勢いよく部屋のドアを開けた。廊下の窓際まで歩いて行き、マナトの方を振り返る。
マナトは僕にぶつからないよう寸での所で身を避けると、尋常じゃない僕のうろたえに怪訝な顔を向けていた。
「たった今ここに・・・」
そう言うと僕は、実際の朝日がさっきまで窓から入っていた陽光とはまったく別物なのに気が付いた。
そうか・・・夢だったのか・・・?
激しい頭痛に僕が足元を取られると、マナトは急いでコーヒーをベッド脇のテーブルに置き、慌てて僕の肩を掴んだ。
「いいから落ち着け、な!」
そう言ってよろめく僕をベッドに座らせる。全身が汗でべっとりと濡れていた。
マナトは心配そうな顔を覗かせて、素早く近くにあったイスを引きずり、僕の目の前に腰を下ろした。
「何があったんだ?」
マナトの心配そうな顔、またその瞬間にも頭痛が襲い、僕が頭を抱えると、マナトはテーブルからコーヒーを持ち上げ、僕に手渡した。
まずいコーヒーでも、少し気分が落ち着いた頃、僕はさっき起こった夢の事を説明した。マナトは額に手を当てて、ハァーっとため息をついている。
「ミューの身が危ないかもしれない・・・」
僕は手に持ったコーヒーを見つめ、なぜかそう口を衝いて出たことに、自分でも驚いていた。
「それとこれとは関係ない。」
「だけど、言いきれない・・・」
その言葉にマナトは少し僕から目を離し、伏し目がちに僕を見つめたが、静かに僕の前に腰かけ直した。
「ミューちゃんは大丈夫だ、信じてやれよ、俺に始めにそう言ったのもお前だぞ?ただ、お前の心配や不安が夢に出ただけだ、後ろ姿しか出て来なかったのがその裏付けんなる」
静かにマナトの方に顔を上げる。
「顔を覚えてない、あるいは忘れてしまった人物だからだ。今の状況を誰かに助けて欲しいのは、俺もお前も同じだからな」
そう言うが、マナトの真剣な瞳にはまだ心配の色が浮かんでいる様だった。
「そうだろ?」
マナトの訴えるような瞳に、僕は急に恥ずかしさを覚えてうな垂れた。
ただの夢を信じるなんて馬鹿げたこと、いつもの僕ならしない筈なのに・・・
僕はベッドから立ち上がると、時計に目を走らせた。
睡眠は十分すぎるほど取れていたようで、到着まで後2時間ほどに迫っていた。
まだ少し頭痛は残るが、リアルでも所詮は夢の事だと、僕は気持を入れ替えて立ち上がった。
ミューの事は信じてる。
マナトはそんな僕を心配そうに見上げていた。
「到着までにシャワーでも浴びてスッキリしてくる!」
その一言に、マナトは待ってましたとニヤリ顔を浮かべたのだった。
「忘れ物は・・・ないな」
ギリギリになって慌ただしいマナトを待ち切れず、僕は先に寝台列車を後にした。
昨日の夜に心配された雨も、嘘のように晴れ渡る空が出迎えてくれる。
予定時刻を30分遅れで到着だ。
「いい天気だ~空気がうまいぜぇ~」
その後ろで、列車を降りながら、マナトはのんきな様子で空を仰ぐ。
「で、ホテルってどっち?」
僕はハッとしてマナトを振り返った。
「あ、バッパーか?」
そう言えばまだマナトに伝えていなかった事だ・・・
「宿泊先はまだ決めてない」
「はぁぁぁぁ?!」
僕はその声に思わず指で耳を押さえた。
「宿泊施設があるのは隣町だ、秘密の楽園付近には宿泊施設はない。ここまで来るのに足がないから・・・ワザワザ電車で移動なんてわずらわしい真似何度も出来ないだろ?だから飛び込みでホームステイさせてもらえる所を探すつもりだったんだ」
もうすっかり見慣れたマナトの呆れ顔。
「そんな無茶な・・・」
「あぁ、一人で来ると思ってたからな!」
その言葉にマナトの目が泳ぐ。
「見つからなかったらどうするつもりなの?」
弱気な声に、僕はカバンを探った。
「寝袋」
マナトはその手があったかという顔を浮かべたが、自分のカバンにはそんなものが入っていてないことにすぐに気が付いて頬を膨らせている。
「お前はホテルを探せ、あのホームで隣町まで15分程のはずだ」
僕が指で指し示すと、マナトはしばらく自分と葛藤していた様だが、すぐに僕に向き直った。
「俺もあの場所に行きたい、今すぐ!」
そうして、20Kg以上もあるバックパックを背負い、僕たちは早速あの秘密の楽園へと歩き出した。