冬夏恋語り
それからの 『麻生漆器店』 は大騒ぎだった。
矢部さんがふたりを追いかけようとするのを、俺とヨネさんとで抑え込む。
動きを封じられながらも怒りで荒れ狂う矢部さんは、だまされた、このままで済むと思うな、訴えてやると、大声でわめき散らした。
「バカヤロウ!」
ついにハルさんの怒鳴り声が響いた。
「矢部さん、アンタの負けだよ。潔くを認めることだな」
ヨネさんが、諭すように話しかけた。
「どうして僕が、別れた男に負けなきゃならないんですか……
おかしいでしょう。麻生さんのお父さんから結婚の許しをもらったのは僕ですよ。
僕と婚約したのに、彼女は約束を破った、婚約不履行で訴えられてもおかしくない状況ですよ。
なにを認めるんですか、絶対に許さない」
「アンタはそう言うが、自分は間違ってない、正しいとでも言うつもりかい?」
「そうですよ。僕は正しい」
「愛ちゃんの気持ちを確かめる前に、アンタ、麻生の親父さんに直談判に行っただろう。
タケちゃんもさっき言ってたが、それはだまし討ちだ、やっちゃいけないことだ」
「作戦と言って欲しいですね。
先に許可をもらって、あとでつじつまを合わせるなんてこと、仕事でいくらでもあるでしょう」
「そうだな、あるよ。
あぁ、そうか、矢部さんの転勤も、本当はもっと前に決まってたんだな。
それを隠して愛ちゃんに交際を迫った、そうだろう」
「うっ……」
「これも作戦か? うん? 出るところにでたら、アンタの方が不利だよ。
訴えられるのは、矢部さん、アンタかもしれないね」
じりじりとヨネさんに追いつめられ、矢部さんは一言も言い返せなくなった。
唇をかみしめ、拳を握りしめたまま立っていたが、無言で頭を下げるとくるりと後ろを向き、大股で歩きだした。
いつのまにか店の前には人だかりができて、騒ぎの成り行きを見守っていた。
その人垣をかき分けて、矢部さんは去っていった。
「はい、一件落着しました。見物、お疲れ様でした。
みなさん、解散してくださーい」
ミヤさんんが、手を叩きながら野次馬を見事にさばく。
見物人はバラバラと散り、騒然としていた店内も静まり、いつもの 『麻生漆器店』 が戻ってきた。
そんな中、ハルさんの腕に託された赤ちゃんは、すやすやと寝息を立てて眠っている。
「しかし、よく寝てるな。赤ん坊の寝顔はいいね、見飽きないよ。
ところで、この子はいったいどこの子だい?」
ハルさんが、孫をあやす手つきで寝た子の子守りをしながらつぶやいた。
この騒ぎで子どもの母親の存在をすっかり忘れていた。
確か店の客の……と思いだし、恋雪を呼ぼうとした時だった。
「あのぉ、こちらのお客さまのお子さんは?」
「おぉ、こっちだ。よく寝てるよ」
「子どもが大変お世話になりました」
入ってきた女性を見て息が止まりそうになった。
彼女は俺など目に入らない顔で、ハルさんやほかのご隠居さんへ丁寧に頭を下げた。
「いやいや、身内のゴタゴタを聞かせてしまったね。
アンタも、子どもが気になっただろうに、言い出しにくかったでしょう」
ハルさんから子どもを受け取り、腕に抱く手つきは母親そのもので、子どもの寝顔に見入る顔は幸せそうだ。
付き合っている頃、いろんな表情を見たが、どの顔でもない。
俺が見たことのない彼女がそこにいた。
その横顔から目が離せない。
「おかげでゆっくり買い物ができました」
「そう言ってもらえると助かるよ」
「北条さんのアイカちゃんの紹介で、こちらへ伺いました。
良いお店を紹介していただいて喜んでいます。
この子の初節句の膳の揃いをお願いしました。
実家の父が、そういうことにうるさいので助かりました」
「そうかい、それは良かった」
ハルさんへ頭を下げた彼女は、しゃんと背筋をのばして、それから俺の方を向いた。
「お久しぶりです」
「久しぶり。元気そうだね」
「元気です、西垣さんも」
「お子さんが生まれたんだね。深雪に……君によく似てるね」
付き合っていた頃より少しふっくらした頬で、深雪が柔らかく微笑んだ。