冬夏恋語り
「接客してくださった方がそうでしょう?」
見上げた深雪の顔に、黙ってうなずいた。
「商品の説明も分かりやすくて、いろいろアドバイスしてもらったの。
漆器には詳しくないから、すごく助かった。
優しくて、落ち着いて、素敵な方ね……私より若いし」
「はっ?」
「だって、本当に若いから」
気にするところはそこか?
深雪の発言に力が抜けた。
「そっちこそ、ダンナは年下じゃないか」
「そうだけど……」
俺が付き合っている相手が気になって 『麻生漆器店』 に来てしまった。
彼女に会ったら予想以上に若くて驚いたけど、でも、そう言うことじゃなくてと口ごもる。
「私とそうならなかったのは、彼女に、麻生さんに会うための、その……運命だったのかな」
つまり、俺の運命の相手は深雪ではなかったのだと言いたいらしい。
「こんなこと言うのは勝手かもしれないけれど、私、ほっとしたの。
西垣さんには、幸せになってもらいたいから」
深雪と別れたあと、いつまでも気持ちを整理できずにいた。
残された婚約指輪を見るたびに、切なさで胸が痛んだ。
そんな気持ちも、いつしか感じなくなっていた。
時間が解決してくれたのか、新しい出会いが痛みを和らげたのか、きっと両方だ。
「ありがとう……会えてよかった。
けど、よく俺がここにいる日がわかったね」
「偶然だったの。お店で麻生さんのお話を聞いていたら、奥から ”西垣先生” って聞こえてきて驚いちゃった。
落ち着かなくて、ドキドキして、帰ろうかと思ったけど」
「子どもがこっちにいたから帰れなかった」
「そう」
ふふっと顔を見合わせて笑みが出た。
深雪の笑顔に気持ちが和む。
けれど、それは恋愛感情とは別の懐かしい気持ちだった。
ここには、実家のお父さんが車で送ってきたそうだ。
迎えはないそうでバスで帰るつもりだと言うが、子どもを抱えてベビーカーを持って、交通機関を利用するのは大変だろう。
慣れればそうでもない、大丈夫だからと言っていたが……
すっかり寝入った子は重そうで、ベビーカーに寝かせるのも難儀で、バスをあきらめた深雪はタクシーで帰っていった。
店の前で見えなくなるまでタクシーを見送りながら、恋雪になんと言葉をかけようか考えた。
ありがとう、と言いたいけれど唐突すぎるだろうか、深雪と話したことを伝えて、それから言うべきか……
悩む俺のことなど知らないように、隣りから恋雪の明るい声がした。
「今夜の 『恋雪食堂』 のメニューは、メインはコロッケです。
パンプキンスープと五種類の野菜のサラダと、デザートはバニラアイスクリームです」
「うわっ、楽しみ」
「コロッケが? アイスクリームが?」
「両方」
「午後7時開店ですから、それまでに来てね」
「わかった」
威勢よく返事をして、店の前に止めた自転車にまたがった俺へ、「ミューちゃんも連れてきてね」 と恋雪の声が続く。
ミューも一緒にとは、今夜は泊ってという意味だ。
「もちろん」 と答え、春の気配が漂いはじめた街へこぎだした。
咲き始めたばかりの桜並木の下を走りながら、思わず笑みがこぼれる。
深雪と話せたことが嬉しくて、何も聞かずにいてくれた恋雪が愛おしくて、今夜のメニューが楽しみでならない。
幸運を独り占めしたような気分だ。
それに引きかえ矢部さんには不運な日だった。
全部が矢部さんの責任ではないが、最悪な結果になった。
さぞ、やりきれない思いでいるだろう。
いつか矢部さんにも良い日が訪れると信じたい。
夕暮れ時の街に灯が灯る。
住宅地への坂道に差しかかり、よし! と気合を入れてベダルを踏み込んだ。