世界で一番好きな人
それからというもの、私は休みの日には、いつも掛川さんの家にお邪魔するようになった。
一人暮らしで、何となく寂しかった私に、本当の家族が出来たみたいだった。
掛川さんは、よく料理を振舞ってくれた。
彼の得意料理はパスタ。
パスタを茹でるための深い鍋に、麺を掴み取る道具に、真っ白なお皿。
調理器具も、調味料も、すべて完璧に揃っている。
「どうぞ、召し上がれ。」
「わあ、いただきます!」
「いただきまーす!」
三人で囲む食卓。
心がじんわりと温かくなるような、そんな時間。
「おいしい。」
「そう?ならよかった。」
掛川さんは、ニコニコと笑いながらパスタを巻いている。
その隣で、薫ちゃんも微笑みながら、パスタを口に運んでいた。
ふと、幸せだな、と思う。
こんな穏やかな時が、いつまでも続けばいいのに。
燃えるような恋でなくてもいい。
確かに私は、掛川さんに恋をしていて、一緒にいられるのだから。
私は掛川さんと、表面だけの関係は要らない。
もう、瑛二さんのときみたいな、偽りの甘さも要らない。
こうして、そばにいるだけで、私は満たされている―――
「瞳子さん、ピアノは弾ける?」
「昔、すこし習っていたことがあるくらいです。」
「弾いてよ。ね?」
「え?」
掛川さんの前でピアノを弾くなんて、なんだか緊張してしまう。
その緊張が伝わったのか、掛川さんは、ハハッ、と豪快に笑いながら、私の手を引いた。
あまりにも自然に触れた手のひらを、思わずじっと見つめてしまう。
「ほら。上手に弾かなくて結構。何でもいいですから。」
アップライトピアノのふたを開けて、掛川さんが私の手をピアノの上に移動させる。
私は、しばらく迷った後、覚悟を決めて弾き始めた。
私が弾いたのは、『エリーゼのために』。
私が唯一覚えていて、それなりに難しい曲。
私がたどたどしくピアノを弾く間、掛川さんと薫ちゃんは、寄り添うようにして耳を傾けてくれた。
そして、終わるとぱちぱちを拍手をしてくれる。
私は、なんだか照れくさくて微笑みながら、小さくおじぎをした。
「なかなかですよ。『エリーゼのために』。情熱的な演奏でした。」
「情熱的、ですか?」
「そうです。元々『エリーゼのために』は、ベートーベンがかつて愛した、テレーゼという女性への愛を表現した曲なのですよ。……ベートーベンは高貴な女性、テレーゼを愛したけれど、その恋は最初から叶わない運命でした。ベートーベンは貴族ではありませんでしたからね。」
「身分違いの恋、ってことですか?」
「そうです。二人の愛は、時に甘く、時に厳しく、悲しい……。」
それを聞くと、なんだか自分の演奏が、ひどくちっぽけなものに思えた。
ベートーベンに申し訳ない、とすら思える。
「掛川さん、弾いてくれますか?」
「この曲を?」
「ええ。」
「では私は、エリーゼではなく、瞳子さんのために弾きましょうか。」
掛川さんは、ふっと微笑む。
私は、それだけで頬を染めてしまう。
そして、掛川さんが弾いてくれた『エリーゼのために』は、私の演奏とは全く違った。
お洒落で、まるで本当に語り手が掛川さんであるかのような旋律。
甘く、楽しげなメロディー。
そして時に、重々しく、悲しげに。
最後は、言い知れぬ切ない余韻を残して、静かに指が離された。
パチパチと手を叩く、私と薫ちゃん。
掛川さんは、この間の『別れの曲』のときのように。
立ち上がってピアノに片手を付くと、深々とお辞儀をした。
その細めた目は、どこまでも優しく、切なかった―――
一人暮らしで、何となく寂しかった私に、本当の家族が出来たみたいだった。
掛川さんは、よく料理を振舞ってくれた。
彼の得意料理はパスタ。
パスタを茹でるための深い鍋に、麺を掴み取る道具に、真っ白なお皿。
調理器具も、調味料も、すべて完璧に揃っている。
「どうぞ、召し上がれ。」
「わあ、いただきます!」
「いただきまーす!」
三人で囲む食卓。
心がじんわりと温かくなるような、そんな時間。
「おいしい。」
「そう?ならよかった。」
掛川さんは、ニコニコと笑いながらパスタを巻いている。
その隣で、薫ちゃんも微笑みながら、パスタを口に運んでいた。
ふと、幸せだな、と思う。
こんな穏やかな時が、いつまでも続けばいいのに。
燃えるような恋でなくてもいい。
確かに私は、掛川さんに恋をしていて、一緒にいられるのだから。
私は掛川さんと、表面だけの関係は要らない。
もう、瑛二さんのときみたいな、偽りの甘さも要らない。
こうして、そばにいるだけで、私は満たされている―――
「瞳子さん、ピアノは弾ける?」
「昔、すこし習っていたことがあるくらいです。」
「弾いてよ。ね?」
「え?」
掛川さんの前でピアノを弾くなんて、なんだか緊張してしまう。
その緊張が伝わったのか、掛川さんは、ハハッ、と豪快に笑いながら、私の手を引いた。
あまりにも自然に触れた手のひらを、思わずじっと見つめてしまう。
「ほら。上手に弾かなくて結構。何でもいいですから。」
アップライトピアノのふたを開けて、掛川さんが私の手をピアノの上に移動させる。
私は、しばらく迷った後、覚悟を決めて弾き始めた。
私が弾いたのは、『エリーゼのために』。
私が唯一覚えていて、それなりに難しい曲。
私がたどたどしくピアノを弾く間、掛川さんと薫ちゃんは、寄り添うようにして耳を傾けてくれた。
そして、終わるとぱちぱちを拍手をしてくれる。
私は、なんだか照れくさくて微笑みながら、小さくおじぎをした。
「なかなかですよ。『エリーゼのために』。情熱的な演奏でした。」
「情熱的、ですか?」
「そうです。元々『エリーゼのために』は、ベートーベンがかつて愛した、テレーゼという女性への愛を表現した曲なのですよ。……ベートーベンは高貴な女性、テレーゼを愛したけれど、その恋は最初から叶わない運命でした。ベートーベンは貴族ではありませんでしたからね。」
「身分違いの恋、ってことですか?」
「そうです。二人の愛は、時に甘く、時に厳しく、悲しい……。」
それを聞くと、なんだか自分の演奏が、ひどくちっぽけなものに思えた。
ベートーベンに申し訳ない、とすら思える。
「掛川さん、弾いてくれますか?」
「この曲を?」
「ええ。」
「では私は、エリーゼではなく、瞳子さんのために弾きましょうか。」
掛川さんは、ふっと微笑む。
私は、それだけで頬を染めてしまう。
そして、掛川さんが弾いてくれた『エリーゼのために』は、私の演奏とは全く違った。
お洒落で、まるで本当に語り手が掛川さんであるかのような旋律。
甘く、楽しげなメロディー。
そして時に、重々しく、悲しげに。
最後は、言い知れぬ切ない余韻を残して、静かに指が離された。
パチパチと手を叩く、私と薫ちゃん。
掛川さんは、この間の『別れの曲』のときのように。
立ち上がってピアノに片手を付くと、深々とお辞儀をした。
その細めた目は、どこまでも優しく、切なかった―――