世界で一番好きな人
悲しい人
次の朝、目が覚めると隣に掛川さんはいなかった。
仕事に行く身支度をして、軽く化粧をする。
昨日泣いたから、まだ少し目が腫れていた。
起きていくと、食卓に朝食が並んでいる。
トーストに、目玉焼きに、サラダ。
「おはよう。」
エプロンをかけた掛川さんは、振り返るとにっこり笑った。
私はなんだか気まずくて、目を逸らしてしまう。
「さあ、朝食を食べてください。あなたをお仕事に送り出さないといけない。」
私はもぞもぞと食卓に着く。
そんな私を見て、掛川さんは終始にこにこしている。
「そんな顔をしていたら、仕事場で皆さんに心配されてしまいますよ。」
私はフォークを手に持ったはいいものの、ちっとも食べる気が起きなかった。
掛川さんみたいに笑えなかった。
分かってる。
自分の感情さえ自分でコントロールすることができない私が、大人な掛川さんと釣り合うはずないって。
だから私も、大人のように振舞いたいのに。
そうできない。
掛川さんが好きだから……。
「食欲ないですか?」
「掛川さん。」
「はい。」
「ひとつ、訊いてもいいですか?」
「ええ。どうぞ。」
「どうして?」
「え?」
「掛川さんは、どうしてそんなに優しく笑えるの?」
掛川さんが、困ったような顔になる。
追い打ちをかけるように、私は言う。
「愛する人を失って、どうしてそんなふうに笑えるの?」
訊いてはいけないことだった。
掛川さんは笑っていても、決して奥さんのことを忘れたわけじゃないのに。
それは、昨日の夜、この目で見たはずなのに。
私が掛川さんの愛を得ることができなくて、笑えないからって―――
「瞳子さんは優しいから、分かっているんでしょう?」
「え?」
「分かっていて、そんな質問をする。……自分を責めながら。」
掛川さんの言葉に、止まったはずの涙が、ぽろり、とこぼれる。
「あなたに会って、私は心から笑えるようになった。あなたに会って、五年ぶりにピアノを弾こうと思った。……だから、尚更私は、あなたを愛するわけにはいかないのです。止まった時間が動き出すようなあなたとの日々は、私からあの人の面影を奪い去るようだ。」
掛川さんが、切なげに目を伏せる。
なんだ、そうか、と思う。
私は、まるっきり掛川さんに愛されていないわけではないらしい。
私を愛するわけにはいかない、ということは。
今このときは、掛川さんは少なくとも、私を愛したいと思ってくれているんだ。
そう、都合よく解釈してみる。
「さあ、お仕事に行かないと。あなたはまた、ここに帰ってきてもいいし、帰ってこなくてもいい。私があなたに誠意を見せられない以上、あなたも自由です。」
私は、涙を拭いて立ち上がった。
掛川さんが、玄関まで見送ってくれる。
「掛川さん。」
「はい。」
「掛川さんは、私にどうしてほしいの?」
そう尋ねると、掛川さんは言葉を失った。
そして、軽く唇を噛む。
しばらくして、何かを決意するような顔で彼は言った。
「私は……、帰ってきてほしいです。あなたに。」
よかった。
そう思う。
その言葉さえ聞ければ、それでいい。
「行ってきます。」
「行ってらっしゃい。」
掛川さんは、微笑みながら私に手を振った。
振り返すことはできなかったけれど、軽く会釈をして家を出る。
切なさと悲しみの中に、少しだけ嬉しさが混じったような朝だった。
仕事に行く身支度をして、軽く化粧をする。
昨日泣いたから、まだ少し目が腫れていた。
起きていくと、食卓に朝食が並んでいる。
トーストに、目玉焼きに、サラダ。
「おはよう。」
エプロンをかけた掛川さんは、振り返るとにっこり笑った。
私はなんだか気まずくて、目を逸らしてしまう。
「さあ、朝食を食べてください。あなたをお仕事に送り出さないといけない。」
私はもぞもぞと食卓に着く。
そんな私を見て、掛川さんは終始にこにこしている。
「そんな顔をしていたら、仕事場で皆さんに心配されてしまいますよ。」
私はフォークを手に持ったはいいものの、ちっとも食べる気が起きなかった。
掛川さんみたいに笑えなかった。
分かってる。
自分の感情さえ自分でコントロールすることができない私が、大人な掛川さんと釣り合うはずないって。
だから私も、大人のように振舞いたいのに。
そうできない。
掛川さんが好きだから……。
「食欲ないですか?」
「掛川さん。」
「はい。」
「ひとつ、訊いてもいいですか?」
「ええ。どうぞ。」
「どうして?」
「え?」
「掛川さんは、どうしてそんなに優しく笑えるの?」
掛川さんが、困ったような顔になる。
追い打ちをかけるように、私は言う。
「愛する人を失って、どうしてそんなふうに笑えるの?」
訊いてはいけないことだった。
掛川さんは笑っていても、決して奥さんのことを忘れたわけじゃないのに。
それは、昨日の夜、この目で見たはずなのに。
私が掛川さんの愛を得ることができなくて、笑えないからって―――
「瞳子さんは優しいから、分かっているんでしょう?」
「え?」
「分かっていて、そんな質問をする。……自分を責めながら。」
掛川さんの言葉に、止まったはずの涙が、ぽろり、とこぼれる。
「あなたに会って、私は心から笑えるようになった。あなたに会って、五年ぶりにピアノを弾こうと思った。……だから、尚更私は、あなたを愛するわけにはいかないのです。止まった時間が動き出すようなあなたとの日々は、私からあの人の面影を奪い去るようだ。」
掛川さんが、切なげに目を伏せる。
なんだ、そうか、と思う。
私は、まるっきり掛川さんに愛されていないわけではないらしい。
私を愛するわけにはいかない、ということは。
今このときは、掛川さんは少なくとも、私を愛したいと思ってくれているんだ。
そう、都合よく解釈してみる。
「さあ、お仕事に行かないと。あなたはまた、ここに帰ってきてもいいし、帰ってこなくてもいい。私があなたに誠意を見せられない以上、あなたも自由です。」
私は、涙を拭いて立ち上がった。
掛川さんが、玄関まで見送ってくれる。
「掛川さん。」
「はい。」
「掛川さんは、私にどうしてほしいの?」
そう尋ねると、掛川さんは言葉を失った。
そして、軽く唇を噛む。
しばらくして、何かを決意するような顔で彼は言った。
「私は……、帰ってきてほしいです。あなたに。」
よかった。
そう思う。
その言葉さえ聞ければ、それでいい。
「行ってきます。」
「行ってらっしゃい。」
掛川さんは、微笑みながら私に手を振った。
振り返すことはできなかったけれど、軽く会釈をして家を出る。
切なさと悲しみの中に、少しだけ嬉しさが混じったような朝だった。