世界で一番好きな人
定時に仕事を終えて、すぐに職場を後にした。
今朝のことが頭から離れなくて。
瑛二さんは自分勝手だ。
自分から離れていったくせに。
ヒールの音を響かせて、掛川さんの家を目指す。
薫ちゃんは、もう帰ってきているだろうか。
今頃、遠足の思い出を、楽しく掛川さんに伝えているところだろう。
ドアの前で、しばらく考え込む。
今さらだけれど。
本当に今さらなんだけど。
掛川さんと、薫ちゃんの間にある、深い絆を思う。
優しい二人は、いつも私を受け入れてくれたけれど。
本当は、私なんかが立ち入っていい関係ではないんだ。
今日は、二人の時間を大切にしてほしい。
そう思って、ドアに背を向けた。
今日一日、掛川さんに会いたいと、ずっと思い続けて。
それなのに、私は一歩を踏み出す勇気が出なかった。
掛川さんは、帰ってきてほしいと言ってくれたのに。
今日踏み出せなかったら、もうここに来ることはできないかもしれないのに。
トボトボと駅を目指す私の背後で、インターフォンの音が響く。
何の気なしに振り返った。
「え……。」
掛川さんの家のチャイムを鳴らしているのは、とんでもない人物だった。
「瑛二さん……。」
止める間もなく、ドアが開いた。
中から、にこやかな掛川さんが顔を出す。
「どちら様ですか?」
「あっ、あなたはっ!!!」
突然焦った声を上げた、瑛二さん。
何事だろうか。
私は、物陰から食い入るようにその二人を見つめる。
「私をご存知なのですか?」
「世界的なピアニストの……掛川雪人さん、ですよね。」
「それはもう、過去の話です。」
「信じられない……。この町に、あなたが住んでいたなんて。お会いできて、光栄です。……実は、ずっとファンでした。5年前に突然、活動休止なさって……。ショックだったんです、俺。」
「それを、伝えに来てくださったのですか?」
「いえ……。」
私は、ただただ呆気にとられてその会話を聞いていた。
まさか。
そんな。
掛川さんが、人並み外れてピアノが上手なのは知っていたけれど。
まさか、世界的なピアニストだったなんて。
知らないのは、私だけだったのかもしれない……。
「あの、ご無礼を承知でお願いします。……瞳子を返してください。」
「え?」
今度は掛川さんが、呆気にとられた顔をする。
オーラでは圧倒的に負けている瑛二さんが、顔を赤くしながらも頭を下げる。
「瞳子と俺は、婚約していたんです。でも、俺の勝手で婚約を破棄しました。でも……、やっぱり、俺、瞳子のことが好きなんです。あいつと結婚して、幸せにしてやりたいと思ってる。本気なんです。……掛川さんに弄ばれて、瞳子、可哀想です。お願いです。彼女を自由にしてやってください!」
弄ばれて、可哀想。
私は、そんなふうに見えるのだろうか。
掛川さんは、しばらく黙っていた。
そして、ようやく口を開いた。
「ええ、どうぞ。そうしてください。」
その言葉に、刃物で心臓を貫かれたかのような痛みが走る。
それはあんまりだよ、掛川さん。
「あなたは、瞳子さんに同じことを伝えましたか?」
「いえ……。」
「私より先に、伝えるべきは瞳子さんでしょう?彼女は、一人前の大人です。リスクも考えながら、自分で判断ができる人です。瞳子さんが選ぶのは、あなたか、私か、それともまた別の人なのか。それは私にはどうしようもない。……ただ、私を選んでも、私は彼女を幸せにしてはやれない。それは瞳子さんも、よく分かっています。」
「それなら、瞳子を突き放してください。幸せにできないなら、最初から優しい顔なんてしないでください。」
「それは私の自由だ。」
掛川さんは、毅然とした表情でそう言いきった。
「私には弱みがある。あなたは正々堂々と、私から瞳子さんを奪えばいい。……それができないなら、彼女を幸せにすることはできないでしょう。」
ドキドキするようなセリフを、掛川さんは一息に言った。
瑛二さんは、それ以上何も言えずに黙り込む。
掛川さんの言葉はもっともで、当事者の私も頷いてしまうくらいだ。
「すみませんでした。……失礼します。」
「いえ。」
瑛二さんは、扉に背を向けると歩き出した。
その頬が、月明かりに照らされて光っている。
見つからないように息をひそめながら、どうしたものかと思っていた。
「瞳子さん。」
「えっ!」
ふいに背後から声が降ってきて、あまりの驚きに思わず声を上げてしまう。
「どうやら私が先に、あなたを見つけたようですね。」
ふっと笑って、掛川さんが私の手を取る。
「こんなに冷たくなって。さあ、中へどうぞ。遠慮は要りませんから。」
掛川さんの顔を見ると、会いたかった気持ちがあふれ出した。
私はやっぱり、この人じゃなきゃダメらしい。
愛を得ることはできなくても。
幸せになれなくても。
この人じゃなきゃだめなんだ。
世界的なピアニスト?
そんなこと、どうだっていい。
掛川雪人、という人は、世界に一人しかいない。
そして紛れもなく、世界で一番好きな人なんだ。
今朝のことが頭から離れなくて。
瑛二さんは自分勝手だ。
自分から離れていったくせに。
ヒールの音を響かせて、掛川さんの家を目指す。
薫ちゃんは、もう帰ってきているだろうか。
今頃、遠足の思い出を、楽しく掛川さんに伝えているところだろう。
ドアの前で、しばらく考え込む。
今さらだけれど。
本当に今さらなんだけど。
掛川さんと、薫ちゃんの間にある、深い絆を思う。
優しい二人は、いつも私を受け入れてくれたけれど。
本当は、私なんかが立ち入っていい関係ではないんだ。
今日は、二人の時間を大切にしてほしい。
そう思って、ドアに背を向けた。
今日一日、掛川さんに会いたいと、ずっと思い続けて。
それなのに、私は一歩を踏み出す勇気が出なかった。
掛川さんは、帰ってきてほしいと言ってくれたのに。
今日踏み出せなかったら、もうここに来ることはできないかもしれないのに。
トボトボと駅を目指す私の背後で、インターフォンの音が響く。
何の気なしに振り返った。
「え……。」
掛川さんの家のチャイムを鳴らしているのは、とんでもない人物だった。
「瑛二さん……。」
止める間もなく、ドアが開いた。
中から、にこやかな掛川さんが顔を出す。
「どちら様ですか?」
「あっ、あなたはっ!!!」
突然焦った声を上げた、瑛二さん。
何事だろうか。
私は、物陰から食い入るようにその二人を見つめる。
「私をご存知なのですか?」
「世界的なピアニストの……掛川雪人さん、ですよね。」
「それはもう、過去の話です。」
「信じられない……。この町に、あなたが住んでいたなんて。お会いできて、光栄です。……実は、ずっとファンでした。5年前に突然、活動休止なさって……。ショックだったんです、俺。」
「それを、伝えに来てくださったのですか?」
「いえ……。」
私は、ただただ呆気にとられてその会話を聞いていた。
まさか。
そんな。
掛川さんが、人並み外れてピアノが上手なのは知っていたけれど。
まさか、世界的なピアニストだったなんて。
知らないのは、私だけだったのかもしれない……。
「あの、ご無礼を承知でお願いします。……瞳子を返してください。」
「え?」
今度は掛川さんが、呆気にとられた顔をする。
オーラでは圧倒的に負けている瑛二さんが、顔を赤くしながらも頭を下げる。
「瞳子と俺は、婚約していたんです。でも、俺の勝手で婚約を破棄しました。でも……、やっぱり、俺、瞳子のことが好きなんです。あいつと結婚して、幸せにしてやりたいと思ってる。本気なんです。……掛川さんに弄ばれて、瞳子、可哀想です。お願いです。彼女を自由にしてやってください!」
弄ばれて、可哀想。
私は、そんなふうに見えるのだろうか。
掛川さんは、しばらく黙っていた。
そして、ようやく口を開いた。
「ええ、どうぞ。そうしてください。」
その言葉に、刃物で心臓を貫かれたかのような痛みが走る。
それはあんまりだよ、掛川さん。
「あなたは、瞳子さんに同じことを伝えましたか?」
「いえ……。」
「私より先に、伝えるべきは瞳子さんでしょう?彼女は、一人前の大人です。リスクも考えながら、自分で判断ができる人です。瞳子さんが選ぶのは、あなたか、私か、それともまた別の人なのか。それは私にはどうしようもない。……ただ、私を選んでも、私は彼女を幸せにしてはやれない。それは瞳子さんも、よく分かっています。」
「それなら、瞳子を突き放してください。幸せにできないなら、最初から優しい顔なんてしないでください。」
「それは私の自由だ。」
掛川さんは、毅然とした表情でそう言いきった。
「私には弱みがある。あなたは正々堂々と、私から瞳子さんを奪えばいい。……それができないなら、彼女を幸せにすることはできないでしょう。」
ドキドキするようなセリフを、掛川さんは一息に言った。
瑛二さんは、それ以上何も言えずに黙り込む。
掛川さんの言葉はもっともで、当事者の私も頷いてしまうくらいだ。
「すみませんでした。……失礼します。」
「いえ。」
瑛二さんは、扉に背を向けると歩き出した。
その頬が、月明かりに照らされて光っている。
見つからないように息をひそめながら、どうしたものかと思っていた。
「瞳子さん。」
「えっ!」
ふいに背後から声が降ってきて、あまりの驚きに思わず声を上げてしまう。
「どうやら私が先に、あなたを見つけたようですね。」
ふっと笑って、掛川さんが私の手を取る。
「こんなに冷たくなって。さあ、中へどうぞ。遠慮は要りませんから。」
掛川さんの顔を見ると、会いたかった気持ちがあふれ出した。
私はやっぱり、この人じゃなきゃダメらしい。
愛を得ることはできなくても。
幸せになれなくても。
この人じゃなきゃだめなんだ。
世界的なピアニスト?
そんなこと、どうだっていい。
掛川雪人、という人は、世界に一人しかいない。
そして紛れもなく、世界で一番好きな人なんだ。