世界で一番好きな人
掛川さんが連れてきてくれたのは、海辺の教会だった。
絵に描いたみたいに、綺麗な教会だ。

濃いブルーの海と、晴れ渡る空。
真っ白な外壁の教会が、その合間に建っているように見える。



「わあ、きれい!」


「ほんとに、綺麗!」



私と薫ちゃんが感動している姿を、掛川さんはうっすらと微笑みを浮かべながら見つめていた。

薫ちゃんは、何かを見つけたようで、教会の庭の方へトコトコと駆けてゆく。
私は、さっきから黙ったままの掛川さんが気になって、ふと声を掛けた。



「掛川さん?」


「ここに来たら、決意が固まると思ったんです。」



ふっと笑う掛川さんの目じりから、ほんの一粒の涙がぽろりと零れた。



「ここ、思い出の場所なんですね。」


「ええ。……私と、妻の。」



掛川さんは、視線を彷徨わせながら、小さな声で言った。



「私は、あなたの言うとおり、5年前までは世界で活躍するピアニストでした。」


「ええ。」


「私はピアノが好きだから、いつもピアノのことしか考えていなかった。いつも、家を留守にして、家庭を顧みない、悪い夫であり、悪い父でした。それで、妻にどれほどの負担を強いたことか。」



苦しそうに、掛川さんは言う。
仕方のないことだっただろうに。
でも、掛川さんはそんな自分が許せなかった。



「私がたまたま日本でコンサートをしていたとき。コンサートの直前に、妻が倒れたという知らせが入りました。」


「え、」


「気になりながらも、私はコンサートを決行した。すでに大勢の観客がホールに入っていて、チケットの払い戻しなんていうことになったら、大変なことになるのは目に見えていたから。……いいえ、それだけではありません。私は、大丈夫だと思った。……まさか、妻が……、あんなに呆気なく、逝ってしまうなんて思わなかった……。」


「呆気なく……。」


「ええ。コンサートが終わって駆けつけてみると、すでに妻の息はありませんでした。急性の、脳出血でした。……私がそばにいたら、もっと早く救急車を呼べたかもしれなかった。もっと早く、予兆に気付けていたら、妻は十分助かった可能性があったのに……。」



掛川さんは、まるで昨日のことのように悔しそうに言った。



「その頃まだ、口も利けなかった薫から、私は母親を奪ってしまった。だからあの子は、ずっと母親の面影を追い求めているのです。」



すべてに合点がいった。
この教会から、掛川さんと奥さんの幸せな生活は始まるはずだった。
ずっとずっと、続いていくはずだった。
それなのに、こんなに小さな子を残して、奥さんはいってしまった。
掛川さんの、手の届かないところに。



「ごめんなさいね。」


「どうして?」


「こんなところに、連れてきてしまって。」



掛川さんが申し訳なさそうに、私に頭を下げる。



「でも、どうしてもあなたに来てほしくて。」


「掛川さん……。」


「聞いてくれますか?私のピアノを。」



こく、と頷くと、掛川さんは切なげに笑った。

私はなぜだか、夢を見ているような気持ちで、掛川さんと共に教会の門をくぐる。
不思議そうな顔の薫ちゃんも、一緒についてきた。


掛川さんは、バージンロードを真っ直ぐに歩いていく。
私は、半歩後ろを歩く。
そして、そんな私の手を、そっと握る薫ちゃんがいる。


教会には、立派なグランドピアノがあった。
掛川さんは、当たり前のようにそのピアノのふたを開けて、それから静かに椅子に腰掛けた。

私は、教会の椅子の最前列に、薫ちゃんとともに座る。



「小さなリサイタルです。瞳子さんと、薫さんへの。」



そう言って、掛川さんはゆっくりと、鍵盤に指を這わせた。
細くて、すっと長い掛川さんの指。
まるで、ピアノを弾くためにあるかのようなその指が、ステンドグラスを通して入ってきた光に照らされて、白く輝く。


そして、掛川さんが厳かに弾き始めたのは、私も知っている。
結婚行進曲だった。


弾きながら、掛川さんの目にはみるみるうちに涙が満たされて、頬を伝い落ちた。
でも、彼は決して、ピアノを弾く手を休めなかった。
ただただ、自分の中の痛みと闘うように、唇を噛みしめながらその曲を弾いた。

涙で視界が曇っても、決して狂うことのないメロディー。

私は、その光景を固唾を飲んで見守っていた。
隣で薫ちゃんも、真剣な顔をして、そんな掛川さんを見つめていたんだ―――


その曲が終わると、休みなく次の曲に移った。

今度は私の聞いたことのない曲だ。
指が、もつれそうにくるくると動き回る。
でも、決してもつれることはない。

掛川さんも、もう取り乱すことはなく、淡々とピアノに集中していた。


そして、次から次へと、難しい曲が続いて。
時に、心が揺さぶられるような切ないメロディーを、掛川さんはまるで歌うように奏でた。


そして、かなりの時間が過ぎたようなとき。
掛川さんは、それまで強張っていた表情をふっと緩めると、優しい優しい顔で私を見つめた。



「最後に、……『別れの曲』を。」



掛川さんが、5年ぶりに、初めて弾いた曲。
私のために、弾いてくれたその曲。


掛川さんは、鍵盤ではなく、どこか遠くを見つめながら弾いていた。
それはまるで、今は亡き奥さんに届けようとするかのように。


『別れの曲』―――


掛川さんが、なぜその曲を最後に選んだのか、分かる気がした。

掛川さんは、決意を固めるためにここに来たと言った。
そう、この曲は。
私に捧げられているわけではない。

今日は、さよならを伝えに来たんだね。
掛川さんから、奥さんへの。



波が引くように、静かに曲が終わる。

私は、立ち上がっていつまでもいつまでも拍手をした。
感動に、いつの間にか流れ出した涙が、とめどなく頬を濡らしていた。


掛川さんは、いつものようにピアノの横に立つと、丁寧にお辞儀をした。
上げた顔は、いつになく晴れやかで。
胸が、きゅんとする。



「雪人さん!」



薫ちゃんが飛びつくと、掛川さんは軽々と薫ちゃんを抱き上げた。
そして、優しい微笑みを浮かべながら、私に近付いた。



「瞳子さん。」


「はい。」


「もう一度、やってみたい。」


「はい!」



その言葉だけで、十分だった。

もう、私だけを愛してほしいなんて言わない。
結婚だって、こだわらない。

だけど、舞台の上でキラキラしている掛川さんを見たい。
もっともっと、大勢の人を感動させる、素敵でお洒落で、誰よりかっこいい掛川さんを見たい。


晴れやかに笑う掛川さんと、こうして共に過ごしていることを。
奇跡だと私は思う。


掛川さんの大きな悲しみの上に起きた、小さな奇跡。


掛川さんは、
片手で薫ちゃんを抱きながら、もう片方の手を伸ばして、私の頬の涙を拭った。



「ありがとう、瞳子さん。」



噛みしめるようにそう言われて。

私も、涙の光る目で、にこっと微笑みを返した―――
< 32 / 39 >

この作品をシェア

pagetop