世界で一番好きな人
カーテンコール
<カーテンコール>


掛川さんの復帰コンサートは、大反響だった。
しかも、コンサート終了後、あっという間に行方をくらましてしまった掛川さんに、注目はさらに集まった。
何と、私たち三人の後姿が、週刊誌にまで掲載されたんだ。
事情を知る数少ない記者たちは、私と掛川さんの関係についてよくない噂まで書いた。

だけど、そんなこと気にならない。
私が手に入れたものは、もっと揺るぎないものだから。
他人にとやかく言われたくらいで、壊れるようなものじゃない。


掛川さんは、この流れに乗ってCDを出すことになった。
もちろん、以前も出しているけれど、今回は特別版だ。
掛川さんの人生が溶け込んで、さらに深みを増した音色は、さらに多くのファンに賞賛されることだろう―――



「今度ね、日曜日が授業参観の日なんだって。」



物思いにふけっていた私の元に、薫ちゃんがおたよりを持ってやってくる。



「授業参観?」


「うん。……瞳子さん、来てくれない?」


「え、私が行ってもいいの?」


「うん!いいよね、雪人さん!」



そう問いかけると、似合いの燕尾服に着替えていた掛川さんが、苦笑いしながらやってきた。



「薫さん、お父さんのことを忘れていませんか?」


「だって……。」



薫ちゃんがうつむくと、掛川さんは笑いながら薫ちゃんの頭を撫でる。



「わかってるよ。瞳子さんに来てほしいんだよね?」


「……うん。」


「だって。行ってあげてくれる?」


「もちろん!」



薫ちゃんの授業参観に行けるなんて、夢みたいだ。

初めて薫ちゃんに会った日、お母さんがいないことでいじめられていた彼女を、救い出した。
あの日のことが、ありありと思い浮かぶ。



「でもやっぱり、私も行きます。」



掛川さんが言う。



「え、雪人さんも?」



薫ちゃんが、嬉しそうに声を上げる。
何だかんだいって、薫ちゃんもお父さんのことが大好きなんだ。



「ええ。なんだか、瞳子さんにばかりいいところを持っていかれて、少し寂しいので。」


「雪人さん!」



三人で、声を合わせて笑う。
私は、本当に本当に幸せものだと思う。



「瞳子さん、これ。」


「え?」



まるで、世間話の続きのように、掛川さんが私の薬指に指輪を嵌めた。



「掛川さん、」


「嵌めておいてください。」


「えっ、」


「今は何も言わせないで。」



掛川さんが、人差し指を唇の前に立てて笑う。
私は、なんだか動悸が止まらなくなる。



「さて、そろそろ行かないと。瞳子さん、薫さん、今日は一緒に行きますよ。もう、客席にいないなんてことは、許さない。」



今日は、掛川さんの復帰後二度目のコンサートなんだ。
今度こそ、掛川さんの素敵な姿を、この目で見る。
もう絶対に、掛川さんを悲しませたりしない。



コンサートは、午後から始まった。
今日こそは、2004席の観客席があるこのホールの、最前列。
掛川さんのすぐそばの席に、薫ちゃんと並んで座る。

今日の主役、掛川雪人が登場すると、観客席はさっと静まり返った。
観客が固唾をのんで待つ中で、掛川さんは落ち着きのある仕草で、ピアノに手を載せる。

そして、このコンサートのために準備したプログラムを、華麗に演奏した。

もう、知らない曲なんてない。
毎日、掛川さんが練習していた曲ばかりだ。
こうして、掛川さんの好きなことを、少しずつ知って行くのが楽しい。
掛川さんの夢が、私の夢になっていくのが嬉しい。


そして、プログラムがすべて終了したとき。

掛川さんは、立ち上がった。



「皆様、本日は私の演奏をお聴きいただき、まことにありがとうございました。」



鳴り止まない拍手を、掛川さんはエヘン、と咳払いして止める。



「えー、私事で、大変恐縮なのですが……、最後に一曲、ある人に捧げたい。」



驚きのざわめきが、会場を包む。
私は、目を見開いて、じっと掛川さんを見つめた。



「ある人とは、私の愛する人です。今日、この場に来てくれている。」



胸が、熱くなる。
こんなに大勢の中で、掛川さんは、私を見つけた。
真っ直ぐ私を見つめて、愛おしそうに微笑んで。



「瞳子さん。ずっと私の隣にいてほしい。……結婚してください。」



私は、薬指の指輪を、ぎゅっと握りしめた。
涙が、はらはらと落ちて止まらない。

止まらないざわめきが、私を少し、得意な気分にさせる。


そんな私の耳に、慕わしいあの曲が聞こえてきた。
掛川さんが、初めて私に弾いてくれた、あの曲。
私の写真を見たら、頭の中で流れ出したという、あの曲。



『出会いなのに別れの曲?』



あのとき、私は笑いながら、掛川さんにそう尋ねたんだっけ。
だけど、今なら分かる気がする。

出会いと別れは、表裏一体だ。


掛川さんは、私と出会って。
代わりに記憶の中の奥さんに、さよならを告げた。

私も、瑛二さんとの別れの先に、掛川さんとの出会いがあった。

私たちは、出会いと別れを繰り返して生きている。
そしてこれからも、そうやって生きていくんだろう。



その曲が終わると、私は誰より先に拍手をし始めた。
つられるようにして、さざ波のように拍手が広がって行く。

舞台の上の掛川さんは、キラキラと輝きを纏っていた。

いつものように、ピアノの横に立って、丁寧にお辞儀をする掛川さん。


顔を上げたとき、目が合うと。

彼は出会ったときよりも、ずっと晴れ晴れとした顔で、私に微笑んでくれた。




おわり。
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