世界で一番好きな人
その日、結局瑛二さんとはお昼ごはんを食べただけで、帰ってきてしまった。
結婚前なのに、あまりにもさびしいデートだ。

魅力がないのかな。

そう思って、鏡をのぞく。
いつもの、決して派手ではない、大人しい顔をした私がいる。
メイクも控えめ。
会話も、楽しくできる方じゃない。
どちらかと言うと、話を振ってほしい。

どことなく曇ったような自分の顔に、ため息をつく。
このままじゃいけない。
そう思うけれど。


その時、ふと玄関に目がいった。
掛川さんから借りた傘が、傘立てに立っている。

どうしたものか、と思う。

叔父さんが忘れていったと言った以上、いつまでもここに置いておくのはおかしい。
しかし、処分するわけにはいかない。
そんなこと、絶対にできない。

だけど―――

渡しに行くのは怖い。
自分が止められなくなりそうで、怖い。


あの、写真屋さんの帰り。
掛川さんの番号に電話をした自分を責めたくなる。
だけど、あの時の番号は、まだ私のケータイに残っているはずで。


無意識のうちに、スマホを手にしていた。
なぜこんなことをしているのか、分からない。
だけど、自分が止められない。



「……はい。」


「も、しも、し、」


「どうしました?……瞳子さん。」


「掛川さん……。」



切羽詰まったような声になってしまう。
これでは、おかしいと思われてしまう。



「あの、この間貸していただいた傘を、お返ししたくて。」


「ああ、あの傘ですか。結構ですよ、もう長く使っているものですし。」


「でも……、」


「気が済まないと言うのなら、……今日はずっと暇ですよ。」


「それなら、また、」


「どうします?」


「今すぐ、会いたいです。」


「今すぐですか。」


「今すぐ、です。」



電話の向こうで、ふっと笑う声がする。



「それなら向かいますよ。アンジュールでいいですか?……今すぐ。」


「私も、向かいます。お待たせしてしまうかもしれませんが……今すぐ。」


「待っていますよ。気をつけて来てください。」


「はい。では、また。」



電話を切ると、泣き出したいような気持ちになった。
罪悪感と、嬉しさで胸が詰まる。

私は、さっきのデートの服装のまま、家を飛び出した。
少し行って、肝心の傘を忘れたことに気付き、慌てて戻る。

傘を持つ手が、寒くもないのに震えていた。

そして、電車に乗って、あの喫茶店の最寄駅で降りるまで。
私はずっと、その傘を胸に抱いていた。
大きくて、重みのあるその傘。
掛川さんが長い間使っているという、その紺色の傘。

なぜかその傘が、愛おしくてたまらなくて。


結婚式を無事に終わらせたいという気持ちも。
幸せな家庭を築きたいという気持ちも。
安定を手に入れたい気持ちも。
そして、瑛二さんと結婚したいという気持ちも。

どれも本物だ。
どれも本当の、私の気持ちだ。

だけど同時に、掛川さんのことを考えると。
今まで感じたことのない痛みに襲われる。

掛川さんの切なげな微笑も。
遺影を今から準備している、その気持ちも。
すべてが、私の胸をきゅうと締め付ける。

どうしたらいいのか分からない。
いや、本当はどうすべきかなんて分かっている。

だけど、理屈ではどうしようもない感情が確かに存在する。
そのことを、私は生まれて初めて知ったのだ―――


思えば、私は掛川さんに一度しか会ったことがないのに。
私は掛川さんの何も知らないのに。


今すぐ会いたいだなんて、そんなことを言ってしまうなんて。

私は唇を噛みしめながら、アンジュールを目指した。
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