六本木グラスホッパー
彼は藤森アラタ。
このヤル気横丁の魚屋の息子で、ボクのクラスメイトであり、一番の親友だ。小学校の低学年の頃からボクたち二人はどんな時でも一緒にいる。
「あちゃー。タイヤ、パンクしてら」
自転車を完全に道の真ん中まで引っ張り出してから、へこんだ後輪に気がついて、アラタは顔をしかめた。そして、その少々古めかしい緑色の自転車を蹴飛ばした。自転車が倒れる寸前で、アラタはハンドルを掴んで引き起こすと、まだ開店していない魚屋の前に立てかけた。
「今日はエージの後ろだな」
「運がいいなあ」
「たまには二人乗りもいいじゃないか。ちょっと前まではいつもこうだっただろ?」
小学校五年生までは、ボクは自転車を持っていなかった。だからいつもアラタの自転車の後ろに乗っかっていた。それに何となく引け目を感じて、ボクは誕生日に母親に自転車をねだった。母親に物をねだったのはそれが初めてで、後にも先にももう無いのだと思う。
アラタがボクの黒い自転車の後ろにまたがる。ボクはバランスを取りながらゆっくりと走り出した。
「昨日の晩飯は鰤の煮付けだった」
行くあてを特に決めずにボクは自転車を走らす。
アラタは自転車から落ちないように両膝でしっかり後輪の枠組みを挟んで、両手を灰色の空に伸ばし、伸びをした。それから、つんつんと突き立てた針金のような髪の毛を掻き毟る。アラタの表情は見えないけれど、多分不満そうな表情をしているんだろうな、とボクは推測した。
「いいじゃん。ボクは好きだよ」
とは言いながらも、ボクは鰤の煮付けと言うものを食べた記憶があまりない。母親の元で暮らしていたときは家政婦の女の人が料理を作っていたのだけれど、彼女は昔洋食のレストランで働いていたらしく、出てくるものはハンバーグだとかパスタだとか、エビフライが多くて、ボクは毎日欠かさず出てくるコンソメスープに飽き飽きしていた。
だからボクは、この国独特の“家庭料理”なるものをあまり口にしたことがない。
カズナと暮らし始めてからは、毎日カップラーメンかレトルトのカレー。時々近くのファーストフード店のジャンクフード。
それはそれで、別に嫌いじゃないけれど。