綺麗なままで
母子家庭としては経済的に恵まれた生活が送れたのも、母が女の武器を最大限利用していたからだと、今では理解できる。ただ、小さい頃はいつも母が遠い存在に思えて寂しかった。夜間保育園ではほとんど預けられっぱなしのような状態で、丸三日も顔を合わせないまま過ごすということもしばしば。
迎えに来る母からはいつも「いい子にしてた?」と確認される。
私が頷くと満足そうな顔をして「じゃあ、次はもっと早くお迎えに来るからね」と言われた。
それを期待して、いい子であり続けた。ママが早く迎えに来てくれることを期待して、どんなに寂しくても泣かなかった。そんな私を見て、母は誤解してしまったのかも知れない。
「美代はしっかりしているから、大丈夫」だと。
大人になったら、絶対に昼間働く人になろうと心に決めていた。
作業療法士という仕事を選んだのは、母とは違う道を歩むという、密かな反抗心から出たものかも知れない。
今の職場では夜勤も、大勢の人間を一気に相手にすることもなく、安定している。一人ひとりとじっくり関われるこの仕事は、水商売とは正反対だろう。
そして、私がこの仕事を選んだことについて母は何も口出しをせず、学費と生活費をポンと出してくれた。
「これでいつ、私が死んでも大丈夫」と笑って。
大学を卒業してから五年間、脇目も振らず働いていた私に、熱心に声をかけてくる男性が現れた。
彼……魚住(うおずみ)さんは、千葉にある大学病院に勤務する作業療法士だった。お父さんが倒れたため、地元であるこの街へ戻って来たのだと言っていた。
三十歳という年齢にしては、患者さんへの対応は落ち着いていて、声のかけ方にも優しさと温かい人柄が伝わって来る。
さすがに大病院でキャリアを積んだ人は違うと、盗み見ては良いところを学んだ。
そんな私の態度が、誤解を招いたのかも知れない。いつの間にか、彼からのストレートな求愛がはじまっていた。