祭囃子の夜に
一度逃げてしまった事は、消しようがない。
信頼も何も失くしただろう。
そこへ戻るという事が、厳しい選択だという事は十分に解っていた。
けれど、翔一は戻る事を決めたのだ。
逃げないと決めた弟に、心の拠り所を与えてくれるあかねは、テツが言うように優しい人間だ。
厳しくて、優しい家族だ。
「あれ、翔一。あんたそれ……」
と、枕元に置かれたボールに気付いた三重子が、驚いたように声を上げた。
「ああ、これ……」
ボールの存在に気付いて、あの路地の事を思い出す。
不思議な出来事だった。本当は夢だったのではないかとさえ思えるほどに。
「それ、あんたのボールじゃないの。そんな古いの、もう全部処分したはずなのに」
「え? いや、これは星霜路地で……」
言われて手の中のボールをまじまじと眺めると、メーカー刻印の近くに何かが書いてある。
消えかかってはいるが、うっすらと平仮名で名前が書いてあったのだ。
「まつおか、しょういち……」
狐につままれたような気分になり、何度も文字を指で触って確かめる。あれは、あの少年は、小学三年の自分だったとでも言うのか。
そんな馬鹿なと、少年の顔を思い出そうとするが、記憶に残っているのは少年野球のユニフォームばかりで、どうしてか顔が思い出せない。
「そう言えば、いつだったかお父さんも不思議な事言ってたわねぇ。星霜路地で、翔一と一緒に居る高校生くらいの男の子を見たって。翔一が大きくなったらあんな感じになるんじゃないかーなんて言ってたわ」
「ああ、言ってた言ってた。アンタその男の子のこと、覚えてないの?」
言われ、記憶を辿ってみる。
自然と思い出されたのは、路地に逃げ込んで泣いた小学三年のあの時だった。
あの時、どうして野球を続ける気になったのか。それを思い出していた。
確かに、高校生くらいの男の人と話をしていた事が記憶にある。
そして、その男の人に言われた言葉が唐突に記憶の奥から浮き上がってきた。
――野球好きなら頑張って続けなきゃ絶対後悔するよ。いっぱい練習してさ。
あの少年に、自分が言った言葉だった。
それでは、自分と同じ名前を呼んだあの声の主。あれはやっぱり――
「今日は時例祭だから。時神様があんたに渡してくれたのかもよ」
「あぁ、そうかもねぇ」
真面目腐って言うあかねに、三重子がからから笑う。
あかねの口からそんなファンタジーな言葉が出てくるとはと、翔一も一緒になって笑った。
路地の出来事は、不思議と翔一の心に溶けて広がっていった。