デキる女の方程式
開けた瞬間、窓から夕陽が差し込み、眩い光が目に入った。そこで私は、息を呑むような光景に出会った。
見知らぬ男性が、ベッドの側に立ち、じっと彼女の顔を眺めている。ミカエル様かと思うくらい背の高いその人は、ドアの所に立ちすくんている私に声をかけた。
「あの…どちら様ですか…?」
四十歳くらいの男性で、きちんとスーツを着ている。どう見ても、病院関係者ではない。
「失礼しました。私、この病院の外科で看護師をしています、杉崎と申します」
声をかけた方に会釈をし、顔を上げた。
「…僕は河本の息子で、晴樹(はるき)と言います。いつも母が…お世話になっております…」
目元は涼やかで、言われた通り、どこか河本さんに似ている。けれど、その雰囲気は冷たく、どうして自分が此処へ来なければならないのか、解っていないようにも見えた。
「母が…以前勤めていた病院の院長から電話を頂き、一目でいいから会ってあげて欲しいと頼まれて此処へ来ましたが…もう、話ができる状態じゃないみたいですね…」
悲しそうでもなく、淡々とした表情で話す。痩せ細った河本さんを、自分の母親だとは、信じ難い様子だった。
「いつからこちらでお世話になっているんですか…?」
河本さんの側から離れ、私の方にやって来た。
「二ヶ月程前からです。検査でガンが見つかり、既に手遅れの状態でした。身寄りも家族もいらっしゃらないという事で、ご近所様には迷惑をかけられないからと、入院を希望されて…。つい先週まではお話もなんとかできていたんですが、痛みがひどくなられて、薬の量も増えましたから意識が混濁しておられる状態です…」
たいして表情も変えずに説明を聞く。本当に彼女の息子なんだろうかと疑いたくなるくらい、ドライな感じの人だ。
「母とは…」
言いかけて少し戸惑うような所が見受けられた。彼は私に、河本さんとは、三十年近く会っていないと話し始めた。
「僕が小学校六年の時でしたから…両親が離婚したのは…」
恨めしそうな表情を浮かべ、昔を振り返る。その口からは、河本さんに対する非難しか聞かれなかった。
「今更、病気だから、死にそうだからと言われても、自分を置いて出て行った人に、すぐに会いに来る気にはなれませんでした…。母の代わりに自分を育ててくれた、祖父母への思いもありましたし、何より自分が恨んでいましたから…。でも、一目会って、やはり本人の口から詫びを聞こうと思って…けど、こんな状態じゃあ駄目ですね。…帰ります。後をお願いします…」
言うだけ言って、さっさと部屋を出ようとする彼の態度に、ムカムカと怒りがこみ上げた。
家族の間で、どんな事があったかは知らないけど、死の淵に立っている母親に声もかけずに帰ろうとしているのが許せなかった。
「待ってください!」
腕を掴んで呼び止めた。迷惑そうに眉間にシワを寄せる男性に、キッと気持ちを奮い立たせて言った。
「河本さんに、一言声をかけて下さい!どんな状態の人でも、耳は最後まで聞こえています。息子さんが来られた事を、彼女に教えてあげて下さい!…ずっと待っておられたんです…!貴方が来るのを…」
涙ぐみながら話す私に、仕方なさそうに溜め息をつき、彼はベッドへ後戻った。側にあった椅子に座り、面倒臭そうに声をかけた。
「母さん」
その呼びかけに、それまで閉じていた目が開いた。奇跡のような出来事に、彼も私も目を疑った。
キョロキョロと動く眼球が、声の主を探してる。
私は慌てて駆け寄り、布団から出ていた手を息子さんに握らせた。
「河本さん、息子さんですよ!晴樹さんですよ!分かりますか ⁈ 」
大きな声で叫んだ。
河本さんは声の出ない口元で、確かに彼の名前を呼んだ。
「は…る…き……」
安心したように表情が穏やかになった。でもそれも、一瞬だった。
スゥー…
大きな息を一つ吸い、呼吸が乱れ始めた。
「河本さん!」
急いでナースコールを鳴らした。センターにいた担当医とナース達が駆けつけて来る。
最後の瞬間が間近なのは、誰の目から見ても明らかだった。
「河本さん、聞こえますか?大丈夫ですよ。安心して、皆、側にいますからね」
担当のナースが声をかける。それに答えるかのように涙が一筋零れた。
「河本さん!」
患者の前で、泣いてはいけない。それは重々承知していたけど、死に行く人を目の前にして、黙ってなんかいられなかった。
「河本さん、逝かないで!やっと、息子さんに会えたのに、逝ってしまったら、お話もできないですよ…!しっかりして!気を強く持って…!」
無理難題を投げかける私を、止める者はいなかった。
誰もが皆、同じ思いだった。
茫然と私達の様子を見ていた息子さんは、その慌ただしさに、事態を理解したみたいだった。
それまでのクールでドライな表情は影を潜め、人間らしい顔つきが戻ってきた。
「母さん…!晴樹です!」
ぎゅっと力強く、両手で手を握り返した。
「目を開けて…!やっと会えたのに…!まだ逝かないで…!恨み言の一つくらい、言わせてくれよ!母さん!お母さん…‼︎ 」
必死に叫ぶその声に目を開け、河本さんは最後の力を振り絞るかのように微笑んだ。それはかつて、私が幼い頃に見た、あの時の笑顔と同じだった。
「お別れではありません。旅立ちです…。いつかまた、必ず会えます…。泣かないで…私は笑ってるでしょう…?」
そう言ってるような気がして、涙を拭った。そして、その言葉を彼に伝えた。
「河本さんは、貴方に笑って欲しいと言っています。最後だからこそ、笑顔で見送ってあげて下さい。涙を流しながらでも…いいので…」
息子さんは驚いたような顔でこっちを見ていた。けれど、それに応えるかのように、必死で笑顔を作った。
「母さん…僕を産んでくれて…ありがとう…」
手を握り、お礼を言い続ける息子さんに見守れながら、河本さんは、最期の息を吐いた。
疲れ切ったような表情はなく、穏やかで優しい笑みを浮かべていた…。
「十七時十五分、お亡くなりです…」
脈拍をとっていた医師の言葉に、息子さんがうな垂れた。小さな子供のように、母親の遺体に泣き崩れる姿を見て、私はあの日と同じ言葉を彼に言った…。
「泣かないで下さい…河本さんは、最後まで笑っておられました…。いつかまた、必ず会えます…」
彼女のように、深く優しい声ではなかったと思う。けれど、言いたいことは、確かに彼に伝わったような気がした。
息子さんは立ち上がり、その場にいた私達スタッフ全員に深々と頭を下げた。
「皆さんには、今日まで大変お世話になりました…。本当に、ありがとうございました…」
膝に置いた手が、ぎゅっと握り締められていた。一番悔しい思いをしていたのは、私でも医師でも他のスタッフでもない。
多分きっと、この人が一番、悔しかったと思う……。
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