男嫌いな“淑女(レディ)”の口説き方
「こちらに、姫野さんからお預かりしている"診断書"があります。姫野さんがこれを持参した意味、お気づきでしょうか?…これは、彼女の『開発営業部への異動を認めて下さい。』という【堅い意思】なのではないか、と私は解釈しています。」

私は、本条課長の言葉の後にしっかりと頷いてみせる。

「………。」

「しかし、裏を返せば…。【こんなもの】を用意しなければならないほど、彼女は追い込まれていたというです。先ほどもお伝えした通り、会議の前に…私は彼女から相談を受けました。『異動の件で話が(こじ)れるかもしれないので助けてほしい。』、『過呼吸になって喋ることが難しくなった場合に助けてほしい。』と――。そう、彼女としては"結論"と"覚悟"を決めて臨んでいるんです。この話し合いに。」

本条課長は、私が追い込まれていることも…覚悟を決めて臨んでいることも、しっかりと伝えてくれる。

この時には先ほどの頭痛は治まっていた。でも、会話の最中にまたいつ過呼吸やフラッシュバックを起こすか分からない。
だから、しばらくは本条課長にお任せしようと状況を見守りつつ、私は筆談用にとメモとペンをPC用の鞄から出しておく。

「"それ"が全てですが、彼女はあなたが素直に納得しないだろうということも予想していました。それで最終的な交渉材料として…【最後のSOS】として【これ】を私に預けてきたんです。『喋ることが難しくなった場合に助けてほしい。』と希望されていますから、ここからは私が…姫野さんの気持ちも確認しながら彼女に代わってご説明しましょう。」

「やっぱり納得できないんだけど…。何で俺が彼女の事情を知らないのに…父さんや兄さん。それに昴が知ってるんだよ。」

「はぁ…。本当にあなたという人は…“自分が一番でないと気が済まない人”ですね。特に落としたい女のことに関しては。……まぁ。姫野さんは、あなたに全く(なび)いていませんがね。まぁ、良いでしょう。『納得できない。』と言うなら…それも含めて説明しましょう。」

「あぁ、してももらおうじゃないか。」

「まずは何の話をするにしても、先ほどネット記事で読んでいただいた〈PTSD〉の話をしなければなりません。」

常務が挑発的な態度を取っていても、それに乗ることなく淡々と冷静に話を進める本条課長。

挑発に乗ることはないけど、彼も目が笑っていない。
“交渉の黒薔薇”が……エンジンを掛けたようね。

「姫野さん、先にお伝えしておきます。なるべく、あなたがつらいことを思い出さなくていいようにしますが…ご気分が悪くなれば遠慮なく退室を申し出て下さい。」

私はコクンと頷いた。

そして、本条課長は封筒から診断書を取り出し、必要な箇所だけを抜粋して読み上げていく。

「それでは、1つずつ説明していきます。〈PTSD〉そのものの説明はネット記事でご覧いただいた通りですので省略します。…この疾患は3カ月程度で自然回復が期待できると一般的には言われているようです。しかし、実際はケースバイケースだと書かれていますね。」

「それを踏まえてお話ししていきたいと思います。まず原因です。『【トラウマになるほどの事件】に巻き込まれたこと』が要因となり発症…と書かれていますね。(なお【事件】のことを本人に無理やり話させる、または深掘りすることは厳禁。)…また、『事情を聞く場合には家族や恋人または夫など…本人が心から信頼していて、安心感を与えられる方のみで実施して下さい。』…とも書かれています。」

「さて。ここで読み取るべきは、"姫野さんの〈PTSD〉は現在進行形だ"ということと…"本人が心を許してもいないのに、医者でもない素人が【発症の要因について詮索する】なんてことは絶対にやってはならない"ということです。また、疾患の原因となった【事件】については、家族や恋人など…【明らかに本人と近しい関係の人間にしか話せないデリケートな内容】だということです。」

本当に、その通りなのだ。

「それから〈PTSD〉について詮索するなどして患者に症状が出てしまった場合、適切な対応をしなければ症状をもっと悪化させる可能性があるとも書かれています。…にもかかわらず、あなたは"それ"を聞いた。『"事件"に巻き込まれたって?』と無遠慮に聞かれた時、彼女は…どんな心境だったのでしょうね。」

本条課長、そんなところまで……。ありがとうございます。

「知らなかったんだよ。知らないことに対して気なんか遣えないだろ。」と開き直って言い返す常務に、彼は「ごもっともな意見ですね。」と再びサラッと切り返している。

「〈PTSD〉に関しては知らなかったのかもしれませんが、姫野さんが男性に苦手意識を持っていることはご存知だったはずですよ。」

それまで黙って話を聞いていた泉先輩が、静かに常務に問い掛ける。そして、それに続くように柚ちゃんや花森先輩も同意の頷きを返していた。

「そもそも。彼女が『〈PTSD〉であることを常務に言えなかった。』…この事実と理由を真剣に考えてみたことはありましたか?」

「――っ!」

本条課長の核心を突く問い掛けに、常務は顔を歪めた。

「…続きを話します。通常3カ月程度で自然回復が期待できると言われている〈PTSD〉ですが、"発症から約5年も経過しているのに…なぜ、未だに治療中なのか。"…重要視すべきはそこです。根本的な原因は先ほどから何度も話題に上がっている【事件】によるもの…。これは間違いないでしょう。しかし、他にも大きく2つの理由があるようです。その1つが『上司からのセクシャル・ハラスメント』。…と書かれていて、これにより未だに日常的に【事件】のことを思い出し、再体験(フラッシュバック)してしまう要因になっている…とも書かれています。」

「現在も、"完治はしていない"という状況だね?姫野さん。」

本条課長の話を受けて、社長が私に問い掛けてきた。

「はい。」

発作の後にどっと疲れてしまう影響で、小さな声での受け答えにはなってしまうけれど…それでもしっかりと返事をする私。

「それでいて、日頃は仕事となれば嫌なことを思い出すのも覚悟して、常務の要求に可能な限り応えてくれていたということか。……常務が、我が息子が大変失礼なことをした。本当に申し訳ない。」

社長は悲痛な面持ちで、私に深々と頭を下げた。

違う、私は社長に謝ってほしかったわけじゃない…。

私はただ、常務に嫌だと拒否したことは冗談ではなかったと…男性が苦手だというのも嘘ではないと分かってもらいたかった。

そして今はただ――。

しばらくはトラブル無く穏やかに過ごして心身を休めたい――。
〈PTSD〉のことを否定せずに受け止めてくれる人・私の働きを認めてくれる人が居るところで働きたい――。

私が、今望んでいることは…それだけだから。

「社長、姫野さんの想いは後ほど聞きましょう。それより、もう1つの要因となっている――。」

「…【美島さんたちの件】だね?」

「はい。まずは、こちらをご覧下さい。」

本条課長は口でそう言いつつ、手ではPCのDVDドライブにディスクを挿入し、操作していた。

そして再生ボタンがクリックされ、映し出されたのは……先週金曜日の昼休憩時の映像だった。


―「{あら、常務秘書の姫野さんともあろう方が…こんな一般社員が使うような中庭でランチですか?…しかもお1人で。}」

「{えぇ、今日は1人で食べたかったんです。あぁ、それから…。用件は昼休み中に終わらせて下さいね、美島さん。}」―


他の仕事もあったでしょうに…。

あの日…。
鳴海部長が会社が戻られてから、本当にすぐ編集作業をして下さったんだ…。

私は、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
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