男嫌いな“淑女(レディ)”の口説き方
姫野さん、俺は――。
"あの日"、俺に「抱きしめてて下さい。」と泣きながら言ってきたあなたを忘れられないようだ。
あなたの涙は、純粋で綺麗だった。
媚びも【計算】も無く、心からの"誰かに傍に居てほしい"っていう思いだけで飛び込んできたんだと思う。
だからこそ"1人で抱え込ませたくない"と思ったし、"泣ける場所を作ってやりたい"と思った。
そんな風に思わされた…久しぶりの女性なんだ、あなたは…。
だが、今すぐあなたに言うつもりはない…。
今はただ、“上司”として見守っていきたいと思う。
あなたの【事情】も分かってるし、長期戦も覚悟してるから…ゆっくり口説き落としていこうと思う。
あなたは…まだ"俺の想い"なんて気づかなくていい。
ただ。俺のところに来てくれたら、今までに【負わされた深い傷】ごと包んで愛してやりたいと思う。
〔部長室〕に向かう彼女の背中を見て、こんなことを考えている俺は"重症だな"と思い、心の中で苦笑いしていた。
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……おい、ちょっと待て。
姫野さんが戻ってきたのはいいが、その後ろに何で部長と鈴原がついてきたんだ。
「…お2人とも、別に私は大したことしませんよ?付箋を使って書類の仕分けをするだけです。本条課長が見に来るなら分かりますけど…。たぶん、お2人がいらっしゃると…課長と私以外の人はそれなりに緊張すると思いますよ。〔部長室〕が空なのも気になりますし。」
2人が来た理由と、付箋の使い道は…そういうことか。
姫野さん、もっと言ってやって。
「まぁ。そう言わずにさ。もちろん、すぐ戻るよ。…本条くんは?来ないの?」
ホント…すぐ戻って下さい、部長。
明日とか、明後日に見にくるならまだしも…初日の午前中から部長がフロアに来て仕事を見るなんて、津田からしたら緊張しかしないだろう。たとえ、メインのターゲットが自分じゃなく姫野さんだったとしても。
「ハァ……。津田、安心しろ。今は行かないから。部長、あなたが居るのに俺まで行ったら津田は仕事になりません…緊張で。」
「本条課長〜。」
「分かった、分かった。津田が緊張してるのはちゃんと分かってる。"伝わっててよかった〜!"みたいな、そんなウルウルした目で見つめるな。ククッ、そんなに緊張してるなら、ちょっと手を止めて姫野さんの【仕事の仕方】を見るといい。」
俺は思わず笑ってしまい、口元を手で覆い隠した。
「桜葉、【津田が手を止めた時間】を引いて…後で報告頼む。」
「分かりました。」
「観月、今から姫野さんの作業時間を計れ。」
「はい。」
「いつでもどうぞ、観月くん。」
そう言いながら、彼女は右手の親指と人差し指に【指サック】までしっかり嵌めているのが…チラリと見えた。
「じゃ、よーい。スタート!」
観月の、「スタート!」のコールとともに姫野さんの手が動き出した。
俺はタイピングする手を止めて、自席から彼女の様子を見つめる。
「姫野さん、聞いてもいいですか?…というか。話しかけて大丈夫ですか?気が散ります?」
「【話しながら】、【聞きながら】業務するなんて…しょっちゅうだったから大丈夫よ。なぁに?津田くん。」
「付箋に書いてある"E-1"とか"W-1"とかって…何ですか?」
「良い質問ね。"E"は【表計算ソフト】の頭文字、"W"は【文書作成ソフト】の頭文字よ。数字は優先順位ね。」
姫野さんの説明を聞いて、鳴海部長は「さすがだね、姫野さん。」と満面の笑み。
鈴原も「なるほど!」とでも言うように、何度か頷いている。
……やっぱり、そういう仕分けのためだったか。
鈴原は、今からでも実践するだろうな。
書類を上から1枚1枚手に取りやっていくのは、効率的じゃない。先に【どのソフトを使うのか】、【いつまでにやらなければならないのか】を明確にした方が、仕事の効率は格段に上がる。ゴールが見えると、自分のノルマが立てやすく…モチベーションも上がるものだ。
さて。津田は、このスタイルだと効率化できると気づくか。
津田がやる気を出すことによって、"後輩に負けてられない"と…観月や桜葉にも良い刺激を与えてくれれば、なお良しだ。
観月は事務処理に若干の苦手意識があり、桜葉はプレゼンなどの発表の事前準備が時々抜けていることがある。今の作業と直接は関係ないが、【人の振り見て我が振り直せ】の精神で同僚や後輩と切磋琢磨していってくれればと思っている。
「桜葉先輩。僕も姫野さんやり方でやってみていいですか?」
「いいよ、やってみな。」
「俺もやってみよ。」
「えっ、“シュウ”も?…何で?」
「その『何で?』…を探りたいから。“雅姉さん”。俺たちと喋りながらやってんのに…このスピードで仕分けしてるし、俺も見てるけど自分で時間計ってるし…無駄がないから。俺も仕分けしてから作業してたけど…俺が"やってたつもりでいただけかも。"って思ってさ。」
目の付けどころが分かってきたな、観月。
「確かにそうかも。俺もやろ、“シュウ”に負けてらんないしね!」
「本当に業務が今までより速く捌けるかどうかは、実感するのが一番だと思うよ。…事務作業は、何も上から順にやっていかなきゃいけないわけじゃない。自分のやりやすい方法で捌いていけば良い。でも“言われていることがすぐに理解できる人”も居れば、“経験して初めて理解できる人”も居る。だから最終的な判断は自己判断でお願いします。本条課長は、そんなところも…きっと見てるわ。」
姫野さんが微笑みながら、こちら視線を投げてきた。
俺も自分の思考を汲み取ってくれた彼女に、"そうだよ。"と肯定の気持ちを込めるように口角を上げ…微笑み返した。
「あっ、課長がこっち見てた。いつから見てました?…しかも、珍しく自分の仕事止めてる!怖っ!本気の観察入ってた!」
「あら。観月くんと桜葉くんは気づいてると思ってたけど…そうでもなかったのね。私が作業始めた直後からずっとだったよ。」
俺が答えるより先に、姫野さんが「私は気づいてたけど。」とでも言うようにサラリと答えていた。
「俺のことは気にするなよ、この際。それより、姫野さんがやってるやり方で何か気づいたか?」
「1枚1枚見てやっていくより…先に分けてから入力作業した方が、断然やりやすいですね。」
俺は観月や桜葉に聞いたつもりだったが、反応したのは津田だった。
「津田、良い食い付きだ。体で実感できたなら、いち早くお前のモノになるな。良いんじゃないか。…観月、桜葉、これはウカウカしてられないぞ。新人2人に追い抜かされるなよ。」
「本条課長が珍しく楽しそうだし、姫野さんも津田くんもやる気十分だから安心したよ。…それじゃ、戻ろうか。鈴原さん。」
「はい、部長。…姫野さん、また何かあったらいつでも言ってきて下さい。」
「ありがとうございます、鈴原さん。」
「それじゃ、本条くん。引き続き…2人をよろしくね。」
「はい。部長。」
俺の返事を聞き終えて〔部長室〕へと向かう鳴海部長と鈴原だったが、数歩進んだ先で何かを思い出したのか「あっ!」と短く声を発し、振り返って観月と桜葉にこう告げた――。
「観月くん、桜葉くん。12時30分には出発するから、それまでに【地下駐のGゾーン】に居て。…で、余裕があったら〔ゴールドっぽいアウディ〕探して、そこに居て。〔僕のアウディ〕だから、それ。分からなかったら…そうだな、目印に〔派手なネイビーのBMW〕を探しな。その近くに止めてあるから。」
「分かりました、〔ネイビーのBMW〕が目印…。」
「“シュウ”、探すのはあくまで〔アウディ〕の方だから…そこんとこ、よろしく。」
…ん? 観月と桜葉のこの反応は……観月が〔BM〕好きってことか?
そういえば…。
姫野さんの、今朝の〔俺のBM〕に対してのあの反応は…何だったんだ?
あれはどう受け取ればいい?
ただ単に〔BM〕のオーナーが分かって嬉しかっただけなのか――。
それとも「乗せてほしい。」ってことなのか――。
彼女が嬉しそうに話していたように、俺には見えたのだが。気のせいか?