男嫌いな“淑女(レディ)”の口説き方
「…はい。合コンに参加したその帰りってこともあったし、後日改めてのこともありましたが……。一緒に男性たちにホテルに連れて行かれそうになったり、帰宅途中までといっても…つけられたことがあって、【事件】直後ですごく怖くて必死に抵抗しました。必死に抵抗してたら…どこかの会社員の方が助けて下さったんです。」

説明しながら自分の頬に涙が伝っていることを、感覚的に自覚する。
泣いている自覚はあったけど、"ここでやめたら前にはきっと進めない"と思って必死に自分の気持ちを奮い立たせた。

「姫ちゃん。ゆっくりでいいよ。」

自分も思い出して…複雑な気持ちでいるに違いないのに、微笑んでくれている柚ちゃんを見ると…泣きそうになるけど、まだ頑張れる気がした。

「体震えてますね、姫野さん。フラッシュバックだと認識…気づけていますか?…あなたさえ良ければ、今の【感情】は外に出して下さい。皆さんの前では泣けないと言うなら場所を変えますが…。変えるなら"縦"に、このままなら"横"に首を振って教えて下さい。」

中瀬先生の問い掛けに、私は首を横に振った。

「分かりました。…では、このまま。」と言った彼に続いて白石先生と本条課長も口を開いた。

「姫野さん、頭預けてくれて良いですよ。思い出して怖いですけど、頑張ってますね。体の震えがこの話をする毎に小さくなってきてますからね。」

「姫野さん、思い出したな…つらいな。だが、あなたはもう1人じゃない、大丈夫だ。抱え込まなくていいから…泣きたければ泣けばいい。俺たちはちゃんと待ってるから…。体…姉さんに預けて泣いても良いし、あなたが嫌じゃないなら俺でも構わない。今は我慢しなくていい…。」

「課長っ!…ううっ……。ありがとっ…ございますっ。」

本条課長のそんな優しい声に導かれるように、私は白石先生の方へ身を預けることにする。

課長に委ねるには、あまりにもいろんな感情が湧いてきて私自身が戸惑ってるから――。

「一度っ…。複数でホテルに連れて行かれそうになったんですっ。…車の後部座席に無理やり押し込まれたんです。それ以降、車の後部座席に怖くてっ…乗れなくなりました…。ドアが閉まっていない車を、不審に思ったその会社員の方が助けに来てくれてっ…車から出られっ…たんですけどっ!」

私は嗚咽(おえつ)をこらえながら、中瀬先生にストーカーに()った時の状況を途切れ途切れになりながらも何とか話す。

「そうだったですね。ちゃんとSOSが出せて良かったです。頑張りましたね。……なるほど。【男性に触れられた時】や男性と2人きりになるなどして【極度に緊張した時】、また自分に危害が加えられそうな雰囲気で【追い詰められている気がする時】は過呼吸になりやすいと。そして【人混み】や【騒がしい場所】…【暗闇】や【車の後部座席】が苦手なんですね。それから先ほど営業をお願いした時のお話から…【攻撃的な女性】も…。」

「は…い。」

「大変よく分かりましたよ、ありがとうございました。さて。話の区切りも今ちょうど良いので、15分ほど休憩にしませんか?……姫野さんもお疲れでしょうし、皆さんのグラスも空になってますから飲み物の用意をしてきます。……再開後は、あなたが嫌でなければ姫野さんのご家族のことと、会社での【嫌がらせ】の件をお伺いしたいと思います。」

――ふと時計を見ると、時刻は午後8時35分だった。

白石さんたちが帰ってから、30分は話してたのね。

「はい…っ…。…大丈…っ…夫ですっ!」

「姫野さんには、“渚さん”から先ほど差し入れして頂いたストロベリーティーか、ここにも置いてあるレモンティーをご用意したいと思いますが、今度はいかがなさいますか?」

「レモンティーを…頂けますかっ…。」

(かしこ)まりました。ご用意しますので少々お待ち下さい。」

そう言って“マスター”の顔に戻った“中瀬さん”は、他の人にもアルコールかそれ以外のドリンクかオーダーを聞いて回りながら、カウンターの中へ入った。

「姫ちゃん、お疲れ様。」

「姫野さん、お疲れ様。本当にいろいろ大変だったね。状況を知れたし…これからは僕たちも力になるから、1人で抱え込まないでね。…もしかして、異動初日に〔応接室〕で昴に話してたことって…これだった?」

泣いていて息が上がっていたのが落ち着いてきた頃、鳴海部長と柚ちゃんに声を掛けられる。

「お気遣いありがとうございます、鳴海部長。柚ちゃんもありがとう。…はい、この用件でした。すみません、部長に詳細お伝えしていなくて…。」

「良いんですよ、それは。あなたを病院に送り届けた時に言ったでしょう?『あなたが話していいと思う人に伝わっていれば良い。』と。……最初に話せた相手が昴だっただけで、結果的には僕たちにもあなたは話してくれたんですから。それで十分…それが全てでしょう?…ありがとう。」

そう言って私に向けられる部長の笑みは、とても柔らかく優しかった。

「姫野さん。ひとまず…ここまでお疲れ様。よく踏ん張ったな。あともう少し頑張ろうな、一緒に。…会社でのことは俺や部長も伝えられるところあるから。……さて、一度全身の力を抜いてリラックスするといい。」

そう言って私に背を向け、どこかへ向かおうとしている本条課長。

「課長、どちらへ?」

私の声に反応して振り返った課長だけど、私を見つめて微笑んだ後…(きびす)を返してピアノの方へ歩いていったと思ったら、そのまま椅子に腰を下ろした。

そして、一呼吸の間を置いて流れ出したメロディーに、私は射抜かれてしまった。

「はっ――。」

このタイミングで私の大好きな"この曲"を弾き始めるなんて――。
そんなサプライズ……ズルイですよ、課長。

【驚き】の後に、私の心と体を独占したもの……。
それは【感動】と【嬉し涙】だった。

本条課長が今演奏しているのは、私が数日前にも…ついさっきも好きだと告げた"【落ち葉】を連想させるシャンソン曲"のジャズアレンジ。

静かに滑らかでありながら、ジャズのリズム感をしっかり刻むように旋律が奏でられる。

なんて繊細な旋律なの……。

しかも音が澄んでいる。
まるで「綺麗だ。」と、"何か"に繰り返し伝えたいと言っているような、訴えているような…そんな演奏だ。

そして何より…課長の指先から奏でられる柔らかな音色に私の心は包み込まれ…癒されていく。

…私を労わってくれるんですか。
そんな都合の良い解釈をしてしまいそうになるほど、柔らかく優しい音色が響いている。

労わってくれているんだと、勝手に思ってて良いですか?

「…あっ!"姫ちゃんの好きな曲"……。」

「…えっ、そうなの?柚。フッ、“あいつ”……。」

「“雅姉さんの好きな曲”って、これかぁ。覚えとこう。」

演奏と一緒に複数の人の声が聞こえてくる。

「フッ、本条さん。やるねぇ……。」

「雅ちゃんの【感動】と【涙】を(さら)っていくなんて…。昴ったら罪作りなことしちゃって…。」

“渚さん”も“中瀬マスター”も、そんな意味深な発言と【含みのある優しい微笑み】を私に向けてこないで下さい、お願いだから…。


そんな顔されると、本条課長の中にある…【私が見てはいけないもの】に気づいてしまう――。


課長はきっと…私が「"この曲"が好きです。」と言ったから、この後の話題の種にでもするつもりで弾いてるだけ。

きっと選曲に【深い意味】なんて無いんです。


もし万が一、本条課長に私のことが好きだという気持ちがあったとしても……私は応えられない。

私は課長を尊敬してるし、いろんな意味で“私を理解してくれる人”だと思っているから、“大切な人”なのは間違いない。
…だけど、だからこそ【一緒に居て傷つけてしまうかもしれない対象】にしてはいけない。

情緒不安定になると過呼吸にはなるし、【拒絶】の反応の一つとして…暴れて【恐怖を感じた相手】を遠ざけることがある。
その時にパニックになっている私を押さえて落ち着かせようとしてくれた“当時の恋人”を…暴れて傷つけたことが過去にはあったから。


そんな…自分と他の人の"想い"もひしひしと感じながら、私は本条課長の奏でる【優しい音色】に全身を委ねた。
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