さあ、好きになりましょうか。
席を立ってトイレに逃げたあたしは、洗面台に手をついてため息をついた。


落ち着け、愛子。目の前にいるのは神田じゃない、関谷だ。神田は遠くにいるのだ。感情的になるな。


関谷も、あたしに失望しただろうか。


「…………好きになりそうだったんだけどな」


自業自得だ。


謝らなければ。正直関谷に謝らなければならないのかとも思うけど、今回はあたしが悪い。神田のことはもう関係ないのだから、感情的になったあたしが悪いのだ。


やっぱり、名前を出したのは間違いだったかな。


あいつのことは思い出すときはいつも顔だけ思い出していた。名前まで思い出すと、どうしても過去の感情に流されるからだ。名前とは、唯一無二のものであり、その人を鮮明に思い出させる。


それが嫌だったから今まで伏せてきた。あいつを思い出しても名前は思い出さないようにしていた。頭の中であいつの名前を呼ぶことを避けてきた。


神田美郷。あたしにとってはその名前こそが呪縛のようなものだった。あたしの心を縛り付けて、体をも動けなくする。


それだけ、好きだった。


あたしは深呼吸をして鏡に写る自分を見た。暗い表情の頬を叩いた。


しっかりしろ、愛子。いつまで過去を引きずってんのよ。


あたしはトイレを出た。


そして、席に戻ろうと関谷の姿を見つけて、あたしは顔の筋肉が強張るのを自覚した。


関谷の反対の席に座っている男がいた。


神田。


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