夜叉の恋
一章
一話 白羽の矢
慌ただしい無数の足音と罵声が日の昇りきった小さな村に響き渡った。
息を切らせて走るのはひとりの少女。
まだ十にも満たないであろう幼い容貌で一際目立つのは二つの生意気な眼光と、櫛なんてもう随分通したこともないであろうぼさぼさの栗色の髪。
小さな手には数匹の魚を抱え、鬼気迫る追っ手にも怯むことなく、継ぎ接ぎだらけの小袖を翻して子鹿のような足取りで駆け抜ける。
「待ちやがれこの盗っ人!!」
少女の後方で怒声を張り上げるのは、一瞬鬼かと見紛う程の形相をした数人の男。
少女はその声に反応することなく追っ手を振り切ろうとするも、所詮は大人と子供。
あっという間に距離は詰まり、少女を数人の男が取り囲んだ。
ふらふらと覚束ない足取りで、しかし生意気な眼光は曇ることなく少女は森を歩いていた。
もうすぐ日暮れ。
村の子供達はもうすぐ親に手を引かれて帰る頃。
嘗ての少女がそうであったように、森に、それも日暮れが近い森になど間違っても近付かないように言い聞かせられている子供達は決して入ることなどないであろう此処は人の気配もなく、寧ろそれが少女にとっては心地よかった。
腫れ上がった頬を撫でる木陰の涼しい風が気持ちよくて、人間なんかよりもずっとずっと優しい気がした。
暫く歩けば少しだけ拓けた場所に出る。
特別綺麗な景色が待っているわけでも、花が一面に咲いているわけでもないけれど。
拓けたそこの隅、一際大きな樹木の下。
ひっそりと佇む一つの無骨な石を見つけて、少女はほっとしたように息を吐いて小走りで駆け寄った。
そっとしゃがみ込んで、冷たい石の感触を確かめるように撫でる。
そして手に持っていた茸や木の実を葉の皿の上に載せると、顔の傷の所為でぎこちないながらも小さく笑った。
「ごめんね、父ちゃんの好きなお魚、今日は持ってこれなかったよ。これで我慢してね」
勿論、返事なんてない。
しかし少女はまるで返事が聞こえているかのようににっこりと笑みを返すと、手を合わせた。
「頂きます」
さぁ、今日は目の前の父に何を話そうか。
今の父には目がないから、きっと顔の傷はばれないから言わないでおこう。
だから今日も空が綺麗だったとか、天気がよかったとか、楽しかったことや嬉しかったことだけを話して言うんだ。
心配しなくても元気だよ、って。