全ての大学生がキ聞かなきゃいけない、サイト。
スルーしないマック。
諭吉のなげき
スルーしないマックに行く。店に入る。こんな時は、注文さえおっくうだ。妻が注文し出した。何か頼もうと、自分の番を待つ。そのちょっとした時間さえ困る。助け舟を出してくれたのは、大学生だ。聞きなれぬことば。会話に唖然とした。素知らぬ顔で耳は横向き、注文にはいった。喋ったら、話しが聞けない。素知らぬ耳にして、顔は店員にあわせた。身振りそぶりは妻にした。しかし、自分だけがつもりでいた。
いざ食べるものがなかった時は、学生をうらんだ。どうでもいいことは人のせいにする。それしてはいけない所でも、実はやっていた。それより、マックだ。
その会話が新鮮で、聞き惚れた。すべて真新しいのは、言うまで無い。もう余計なことを言いたくなった。小説だからいい。話しがそれていい。ここではいいのだ。どうやら、あべこべで生きてきた。随分長いことだった。気づくのが遅すぎた。人生には、小説が必要だ。土俵に上がった人はもちろん。そうでない私。まあいい。あまりよくわからずにはじめた。慣れるしかない。おかけでわかった。どうでもいい所は、パッと見る。小説でもやたら早く読むあの人。「すべて観るんだよ。」そういわれたら、「小説はくだらなくていい。」「書いてる自分が面白ければいい。」そう言われてるようで安心した。そして、だんだんと小説の素ばらしさがわかってきた。今はマックはどうでもいい。余韻にひたらないと、なんて居心地だ。
「あのすべての大学生がきかなきゃいけないサイト、って…」
耳に飛び込んできた、この言葉にビックリした。どうやら、今の大学生はみんな同じ事を聞く、そんな時間があるらしい。それも、この国のすべての大学?!後は、たわいもない話だった。私の頭は、想像が湧きあがった。全ての大学生が?何を聞くんだ?私もしゃべれるのか?そうだ、そこなんだ。
実は最近毎日のように、諭吉が枕元にたっていた。1万円札はまったくない。諭吉は来る。万札は来ない。今日は万札よ来い、願って寝ても諭吉。いつだか、諭吉のことばかり想ってしまう。
諭吉は、常になげいている。いくらなんでも、考えてしまう。最初から私自身、私本人、私に対して諭す。私の所にせっせと来ていた、だから私に問題が?と、謙虚に受け止めるべきだった。いつも大きな間違いをする。でも、ここは小説だ。あなた自身の過ちは、どうでもいい。読者は思うだろう。それより、なんだこの小説は?何が何だかさっぱりわからない。しかしそれでいい。でも読み進めるしかない。最後に分かればいい、と自分をなぐさめる。小説は最後まで読まないと文句は言えない。道中怒れても、気持ちをおだやかにする。謙虚になれた自分がいる。慣れないと忍耐がいる。最後まで小説読まない人は思うだろう。いや、私は思った。そう思った途端、小学生の時の読書が頭に来た。わたしの場合はこうだ。小説を最後まで読まなかった。長編小説を、面白くないと途中であきらめた。最初に芥川龍之介の「杜子春」は読んだ。何を言いたいか分かり易い。全てにその簡潔さを求めってしまった。だとしても最後まで読まない。だったら口だしするな!人のせいにもするな❗️はっきり言ってくれたら、気づいただろう。またいかん。そうではなく、【小説は最後まで読む!】。一度読み出したら最後まで読む。小説には色々なひとそれぞれたくさんのおもしろさがある。一度読み出したら自分の面白さが分かるまで読む。そういうものであってほしかった。読破していないのに、文句は言う。一度やり出したのに最後までやらない。やらなければいけないこともやらない。今までの人生、「金魚のふん」。一言で例えるなら一番ぴったしの言葉だと思っていた。それでも人から見れば一番せこい人生を歩んできた。でも小説が自分。正しくは小説の読み方が全ての自分だ、、とでも言うのか。なんだかもっとひどい自分を歩んできたようだ。少し黙りたくなった。でも書く。人生とは喜劇のようだ。人生とは小説より奇なりだったか?それとも、人生は小説よりおもしろい、か?一緒か。でもほしかったのは、「人生とは小説を読破していくようなものだ。」この言葉を子どもの時、聞きたかった。
いざ食べるものがなかった時は、学生をうらんだ。どうでもいいことは人のせいにする。それしてはいけない所でも、実はやっていた。それより、マックだ。
その会話が新鮮で、聞き惚れた。すべて真新しいのは、言うまで無い。もう余計なことを言いたくなった。小説だからいい。話しがそれていい。ここではいいのだ。どうやら、あべこべで生きてきた。随分長いことだった。気づくのが遅すぎた。人生には、小説が必要だ。土俵に上がった人はもちろん。そうでない私。まあいい。あまりよくわからずにはじめた。慣れるしかない。おかけでわかった。どうでもいい所は、パッと見る。小説でもやたら早く読むあの人。「すべて観るんだよ。」そういわれたら、「小説はくだらなくていい。」「書いてる自分が面白ければいい。」そう言われてるようで安心した。そして、だんだんと小説の素ばらしさがわかってきた。今はマックはどうでもいい。余韻にひたらないと、なんて居心地だ。
「あのすべての大学生がきかなきゃいけないサイト、って…」
耳に飛び込んできた、この言葉にビックリした。どうやら、今の大学生はみんな同じ事を聞く、そんな時間があるらしい。それも、この国のすべての大学?!後は、たわいもない話だった。私の頭は、想像が湧きあがった。全ての大学生が?何を聞くんだ?私もしゃべれるのか?そうだ、そこなんだ。
実は最近毎日のように、諭吉が枕元にたっていた。1万円札はまったくない。諭吉は来る。万札は来ない。今日は万札よ来い、願って寝ても諭吉。いつだか、諭吉のことばかり想ってしまう。
諭吉は、常になげいている。いくらなんでも、考えてしまう。最初から私自身、私本人、私に対して諭す。私の所にせっせと来ていた、だから私に問題が?と、謙虚に受け止めるべきだった。いつも大きな間違いをする。でも、ここは小説だ。あなた自身の過ちは、どうでもいい。読者は思うだろう。それより、なんだこの小説は?何が何だかさっぱりわからない。しかしそれでいい。でも読み進めるしかない。最後に分かればいい、と自分をなぐさめる。小説は最後まで読まないと文句は言えない。道中怒れても、気持ちをおだやかにする。謙虚になれた自分がいる。慣れないと忍耐がいる。最後まで小説読まない人は思うだろう。いや、私は思った。そう思った途端、小学生の時の読書が頭に来た。わたしの場合はこうだ。小説を最後まで読まなかった。長編小説を、面白くないと途中であきらめた。最初に芥川龍之介の「杜子春」は読んだ。何を言いたいか分かり易い。全てにその簡潔さを求めってしまった。だとしても最後まで読まない。だったら口だしするな!人のせいにもするな❗️はっきり言ってくれたら、気づいただろう。またいかん。そうではなく、【小説は最後まで読む!】。一度読み出したら最後まで読む。小説には色々なひとそれぞれたくさんのおもしろさがある。一度読み出したら自分の面白さが分かるまで読む。そういうものであってほしかった。読破していないのに、文句は言う。一度やり出したのに最後までやらない。やらなければいけないこともやらない。今までの人生、「金魚のふん」。一言で例えるなら一番ぴったしの言葉だと思っていた。それでも人から見れば一番せこい人生を歩んできた。でも小説が自分。正しくは小説の読み方が全ての自分だ、、とでも言うのか。なんだかもっとひどい自分を歩んできたようだ。少し黙りたくなった。でも書く。人生とは喜劇のようだ。人生とは小説より奇なりだったか?それとも、人生は小説よりおもしろい、か?一緒か。でもほしかったのは、「人生とは小説を読破していくようなものだ。」この言葉を子どもの時、聞きたかった。