じゃあなんでキスしたんですか?

 
やけを起こしたように水をあおった森崎さんに、わたしはなんだか腹が立って。

「キスされました」

「ぶっ」
 
霧吹きのように飛び散った飛沫が、朝の光にきらきら反射して、場違いにきれいだった。

「きっ、キス!?」

「あと、抱きしめられました」
 
畳み掛けたい衝動をこらえて、心の中でつぶやく。
 
かわいいって言ってくれました。

『小野田』って、やさしく呼んでくれました。
 
言葉にはできないまま、わたしは目で訴えた。
 
森崎さんはあっけにとられたように口を開けている。
 
本来なら、酔って記憶を失くした人間には「特に何もありませんでした」と伝えるべきなのかもしれない。それが大人のやさしさなのかもしれない。
 
でも、わたしにはできなかった。
 
だって、なかったことになんて、したくない。
 
わたしの、大事なファーストキスだったのに。
 
しばらく黙ったあと、森崎さんが「あぁ」と吐き出した低い声は、そのままため息になった。

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