じゃあなんでキスしたんですか?

 
 *

――忘れてくれ。
 
各駅停車の列車みたいに、エレベーターは各階で口を開け、そのたびに少しずつ社員たちを吐き出して、七階に到着する頃には想像以上の時間が失われ、反対に苛立ちが膨らんでいたりする。
 
だから六階なのに階段を使う人の気持ちも、分からなくもない。
 
――忘れてくれ。
 
人がまばらな就業前のフロアを抜けて、自分のデスクにたどり着く。
足元にバッグを置いてパソコンの電源を入れた瞬間、正面の席に座っていた森崎課長と目が合った。
 
ばくんと胸が鼓動する。

「おっ…ぴゃようござひます!」
 
ひっくり返った声に、彼はあきれたように目をつぶって、ちいさく首を振った。
 
――忘れてくれ。
 
って、忘れられるわけ、ないじゃないですかぁぁ!
 
心の中で泣き叫ぶ。
 
森崎さんの顔を見ただけで、あの夜の出来事がドラマみたいに再生されるのだ。
 
わたしの頭の録画装置はとても優秀で、森崎さんの声も、表情も、朝陽にきらめいた水しぶきも、あの日のすべてを完璧に再現してくれる。
 
忘れるどころか、記憶はうつくしい装飾までほどこされて鮮やかに変わっていくばかりだ。

< 114 / 265 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop