じゃあなんでキスしたんですか?
「何がしたいのか、なんで桐谷じゃないといけないのか、ちゃんと伝えたのか? あれも忙しい男だから一筋縄ではいかないだろうな。ほかの社員で間に合う用事なら別の人間を当たれと言いそうだ」
「でも、社内の仕事ですよ? 広報課からの依頼なのに」
「相手を尊重するのに社内も社外も関係ないだろ」
言葉を失っているわたしを見て、すこし厚みのある唇がうっすら弧をえがく。
「まあ、来週頭までに音声を録れればなんとか間に合うだろ。せっかくだから、もうちょっとねばってみろ」
「……はい」
森崎課長は残りのコーヒーを飲み干すと、近くにあったゴミ箱に缶を放り投げた。
その目が汚れた廊下に向かい、わたしはとっさに右手を上げる。
「あ、拭いておきます!」
「悪いな」
きりりと締まった表情のなかに、わずかにやさしい色が浮かんだ気がした。
細長いスーツの背中はガラス戸をくぐり、経営企画部のフロアに消えていく。
エレベーターホールから課長の気配がなくなったとたん、吸い込んだ空気がじめついたように肺が重くなった。