じゃあなんでキスしたんですか?

 
 *

空席が増えるにつれて、フロアの温度が下がっていく。
 
定時を迎え撃つように帰宅していく社員たちに遅れること四十分、わたしはパソコンの電源を落として席を立った。

「おつかれさまでした」
 
広報課で唯一残っていた森崎さんに声をかけたけれど、やっぱりこちらを見ることはなく、「おつかれ」とそっけない言葉だけが返ってくる。
 
亀のようなエレベーターにひとりで乗り込み、ボタンを押した。
 
ゆるゆるとマイペースに降りていく昇降機は、途中で止まることなく一階でわたしを吐き出す。

「お、いま帰りか」
 
入れ違いでエレベーターに乗ろうとした男性が、気安い口調で声をかけてきた。

「桐谷さん。おつかれさまです」
 
細いストライプ柄のスーツをまとったエースは、外回りを終えて帰社したところらしい。エレベーターに乗り込みながら、冗談っぽく白い歯を見せる。

「いまから飲み行こうぜ」
 
もう口癖になっているみたいだ。
 
言葉と行動が矛盾していて、断られることを前提に誘っているとしか思えない。

「いいですよ」
 
ドアが閉まる直前にそう言うと、桐谷さんの大きな目が丸まる。ガラス越しに、そのままの顔で上に運ばれていって、ちょっと笑ってしまった。

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