じゃあなんでキスしたんですか?

 
二階で途中下車をして階段を駆け下りてきた桐谷さんは、電話でアシスタントに「直帰する」と連絡を入れて、わたしを会社からすこし歩いたところにある居酒屋へ連れて行った。

「蘭水ください」
 
店員に注文するわたしに、対面でメニューを広げていた桐谷さんが声を裏返す。

「いきなり日本酒かよ!」

「何言ってんですか。蘭水なんてジュースみたいなもんじゃないですか。あ、あと大根ステーキと帆立貝の酒蒸しと、それから酒盗」
 
わたしのオーダーを受け取ってアルバイト店員が下がる。それを横目で見て、エースは頬をひくつかせた。

「おまえ……さては、ただ飲みたかっただけだな」
 
そう広くない店内は、まだ空席のほうが多かった。ボックス席でジャケットをハンガーにかけ、桐谷さんは灰皿を引き寄せる。

「なんだよ、なんかあったのか?」
 
からかうように言って、タバコに火をつける。白く細長い筒の先が生命を宿したように赤く燃えると、女のひとみたいにきれいなラインの顎を軽くあげ、紫煙を吹き出した。
 
その仕草にほんのすこし見とれてから、運ばれてきたお通しに箸を伸ばす。

「ちょっと、フラれただけです」

「なんだ、フラれたのか」
 
一瞬笑ったかと思えば、桐谷さんは急に「げほ、ごほ」と咽せこんだ。

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