じゃあなんでキスしたんですか?
女はたぶん、男の人より、気持ちを切り替えるのが下手くそだ。
長机の向こう側で、森崎課長は淀みなく原稿を読み上げていく。
それはいわゆる棒読みの音読で、ナレーターのような抑揚はないけれど、低く張りのある声質はそれだけで気持ちを高揚させる。
「という点から新たな海外拠点を確立する意向を――ここ、“確立”じゃなくて“設立”じゃないか?」
「あ、はい、ええと」
わたしはあわてて電子辞書のキーを押した。ふたりきりの会議室に降りたささやかな沈黙は、必要以上に手元を狂わせる。
「え、えと、新しく機関をつくるという意味合いなら、“設立”のほうが妥当かと」
「ん、じゃあやっぱり設立な」
しゅっと赤ペンを走らせて、課長は社長メッセージの続きを低い声にのせていく。
十ページにも及ぶ原稿の文言を目で追いながら、わたしは彼の声を自分の声に置き換えるように黙読した。
「こんなとこだな」
かたんとペンを転がして、森崎さんが仰け反るように背筋を伸ばす。