警備艇乗船前の電話
対馬中央病院
対馬中央病院の駐車場に,僕の軽自動車を止めてから,緊張しながら,そして心配しながら,夜間面会者通路を抜けて,集中治療室に向かった。作りかけたカレーのことが気になった。
集中治療室とかかれた電光掲示板を見付けて,つい急ぎ足になった。集中治療室前に立っているしおれたスーツ姿の男性がこちらを見て
「どうも,富永です。一谷さんですかね,さっそくご本人に会っていただけますか。ええ,病院側の許可は取っています。看護師長さんが立ち会いのため,すでに集中治療室の中に入られています。さあ,どうぞ,お先に」
と早口に言った。
僕は,どんな姿で栄子は眠っているのだろうか,と思い,心臓がキュンと痛んだ。いっぺんに気分が悪くなるほどの痛みだった。集中治療室に足を踏み入れると,一つだけのベッドに,口にチューブを入れられ,かつ酸素呼吸器もはめられ,腕に数本の点滴のチューブとつながれた栄子の姿があった。思わず,その哀れさに足が止まりそうだった。僕は,ベッドすぐ横に行きマジマジと顔を見た。間違いなく,一谷栄子だった。
「はい,間違いありません。妻の一谷栄子です。」
と刑事に言った。年齢55歳くらいの小太りの女性が
「看護長の中山と申します。奥さんの状態は,予断を許しません。どうやら車にはねられてから,浅い海に落ちて呼吸困難になったようで,意識がありません。ほかのご家族の方にもご連絡をしていただきたいのですが。」
「はい,福岡市内に娘と栄子のご両親がおられるので,私から連絡を取ります。」
集中治療室の外で,富永刑事から説明を受けた。
「栄子さんは,車からはねられて一旦浅い海に落ちたけど,自分で起き上がったみたいなんですけど,波に足を取られたか何かでまた海に沈んだようなんです。それでも,うんよく溺死する前に波打ち際に打ち上げられたようでして。」
「どうして,栄子は対馬にいたんでしょう。私になんの連絡もなく,対馬に来ているなんて?」
「それでは一つ一つ考えてみましょうか?最近のご夫婦の関係は?」
「ええ,実は離婚を話し合っていました。」
「ほう,そうですか?離婚しようとした原因って簡単に言えます。いや,取り敢えずの報告が私としてもいるものですからねえ。簡単には難しいでしょうけど?」
「ええ,栄子と離婚の話を始めたのは,1年前からです。性格の不一致というか,妻が私の転勤について来ないし。。。」
「すると,ますます奥さんが対馬に来ている理由はないですね。あなたが呼ばれていたとかは?」
「いいえ,とんでもない,ここ数日は電話で喧嘩してて顔を見たくない状態でしたから。」
「では,対馬に奥さんの知人がいたとか?」
「いや,それもないと思います。妻は『こんな田舎の離島には住みたくないわ』と言っていたくらいなんで。」
「うん,なんでしょうねえ」
「それに,変な電話が私に架かってきて・・・」
「電話?誰から栄子さんから。」
「いえいえ,男性の声でして,名前も名乗らずに,『おまえたちは離婚してはいかん』と怒鳴り声で私に警告したんです」
「はあ,お知り合いではなくて,例えば栄子さんのお父様とか」
「いいえ,それはありえません」
「ところで,失礼かもしれませんが,奥様は美人ですねえ。危うく溺死しそうだというのに,ベッドに寝ている寝顔はきれいだ。もしかして。。。」
「ええ,なんです?」
「いえいえ,あらゆる可能性を考えるのが刑事の仕事でしてね,奥様に男性のご友人がいてもおかしくないなあ,と思いまして」
「男性知人が対馬にいたと?」
「まあ,可能性です,可能性。」
「。。。」
「いや,失礼しました。今日は私はお先に失礼します。福岡のご家族の方にはそちらからご連絡を取ってもらってよろしいですか?」
「はい,分かりました」
集中治療室に長く入っておくことはできないと看護師長から言われて,富永刑事と一緒に出た。駐車場に向かう途中で,自宅と栄子の実家に電話をかけたが,だれも出なかった。
僕は軽自動車を運転して,職員宿舎に戻った。古くなった宿舎のドアをギーッと言わせながら,部屋の中に入り,ガスレンジ台の上の鍋を見て,作りかけのカレーをどうしようかと思った。