コーヒーを一杯


 五年前、私は大学受験を控えていた。彼は、そんな私の家庭教師をしてくれていた。
 当時大学二年生だった彼には、同じ年の彼女がいた。
 初めの頃は、彼女とのことを茶化して笑っていたけれど、気がつけば私は彼に惹かれていて、おかげで彼女との話が話題でのぼると苦しくて切なくて、集中できない日々が続いた。
 成績が下がり始めたある日、彼が一つの提案をしてくれた。
 希望の大学に合格した時には、一緒に食事をしよう。とても美味しいパスタとティラミスを出す店があるんだ。
 そう言って彼はクシャリと笑った。
 現金なもので、彼女の存在が気になりながらも、合格すれば彼と食事へ行けると言うご褒美に釣られ、私の成績はみるみる元に戻り、そして上がっていった。
 彼の提案に乗せられた私は見事大学受験に合格し、彼と念願の食事へ行くという約束を手に入れたんだ。



 コトリと丁寧にカップが目の前に置かれて、現実へと思考が戻された。

「どうぞ」

 笑顔で促され、素敵なカップに手を添えて口元へと運ぶ。
 香り立つ中にある芳ばしさと苦味。酸味が少なくて飲みやすい。

「美味しい」

 カップから顔を上げると目の前に立つ時子さんが得意げに、だろう。とでもいうように笑みを浮かべていた。
 その笑みは少しも嫌味な感じがなくて、寧ろ、はい。とっても美味しいです。と張り切って応えてしまいたくなるほどだった。

 普段チェーン店のコーヒーばかりを飲んでいて、丁寧にドリップされていたり、こんな素敵なカップで飲むなんてことがないせいか、余計に美味しさが引き立っているのかもしれない。

「今日は、何か約束はないのかい?」

 さりげなくかけられた言葉に眉根が下がる。

「約束は……あります。多分……」
「多分?」

 当然のように訊き返されて、私はカップの中のコーヒーへ視線を落とした。



< 44 / 47 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop