南柯と胡蝶の夢物語

病室に通された穂月は、掠れた声で呟いた。

「嘘でしょ……紗良里……?」

どう見たって死んでいたのに。
警察も救急隊もそう言っていたのに。
目の前の白いベットに横たわる紗良里は、確かに生き返っていた。
意識こそ戻っていないものの、微かに胸が上下している。
奇跡と言ってもまだ足りない気がする。
無意識に、自分の腿を抓った。

「痛……いたいぃぃ……っ」

夢で無いと思った瞬間に、今までの分の涙が全て溢れかえってきた。

「なんで……死ななかったの……?ダメじゃない……私のことなんて、忘れて、天国に行くんじゃなかったのよ……っ!」

顔の左にきつく巻かれた包帯に手を添えて、そっと彼女の頬を撫でる。
体温がある。それが、なんて喜ばしいことか。
しかしそれは、あくまで自分にとってである。
これだけ大きな事故の後に、まだ生きなくてはいけない濁花の子どもの意味というのを知らないほど、穂月は愚かでもないのだ。
とても、とても複雑な気持ちで何度も親友の顔を撫でる。
包帯の下がなにやら膨らんで包帯を押し上げているのも気が付いていた。
これから紗良里は、今までよりももっと激しく社会から迫害されるだろう。
花を咲かせてしまった人間は施設からも追い出され、病院にまるでばい菌のように一生隔離されてしまうので、彼女の唯一の身寄りも無くなるし、彼女はまた外に出れなくなってしまう。
それを考えるとどうしても、彼女が奇跡的に助かったことを素直には喜べなかった。

そこまで考えて穂月はまた、紗良里の顔を見つめる。
呼吸に上下する胸を見つめる。
奇跡的に助かったからといって、素直に喜べはやはりしないが、それでも、と思うのだ。
やはり穂月は、これは自分の勝手で紗良里の命を救った存在――神か仏か、もしくは悪魔かもしれないが――に感謝した。
その神とやらに都合が良い奴だと思われても仕方ないが、紗良里を救ってくれた存在になら自分のことなどどう思われても良かった。
願うならば紗良里をこのまま幸せにして下さいと何度も心で唱え続けるのだ。

その祈りを、ほくそ笑みながら眺める『神』本人の存在も知らないまま。

「別にアンタの為じゃあないですけどね。紗良里にはもっと生きてて貰わなきゃいけないってだけの話」

その声は、病室を出ようとする穂月にも意識が戻らない紗良里にも聞こえていない。
窓を開けて堂々と腰を掛けながら、その人は人間に見えない姿で人間に聞こえない独り言を呟きつづけた。


「だが、あんたのその願いを叶えてやることはできないですね」
「私は便利屋じゃないんだから。人間ってのは強欲でよくないよ」
「紗良里が死ぬために生き返せただなんて知りもしないで」
「紗良里もかわいそうに。ああ、とってもかわいそうじゃないですか。悲劇のヒロイン、お似合いですよ」

穂月が病室を出ると、その水のような髪の流れを持った人影は、紗良里の前髪をそっと撫でた。
優しく、愛おしそうに。

「それじゃあ、私も願いましょうか。紗良里の幸せを、私でない誰かに」


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