南柯と胡蝶の夢物語
目の前の、まだ笑いを抑えられない様子で水流の様な髪を振り乱す人を呆然と見ながら、ぽつりと呟いた。

「……ごめん」
「は?」
「ごめんって言ってるでしょ。……ちょっと、そういうところ逃げちゃうんだよね……いつもそう。私は……この世で一番それ言っちゃいけない人間だったのにさ」

その言葉に軽く目を見開くと、その人は笑いを収めた。
その代わりにまた、意地の悪い微笑みを浮かべ始める。

「意外ですね。逆上するかと思った」
「別に。口でアンタに勝つのは無理そうだしね」
「おや、そうですかねえ。口喧嘩に関しては穂月さんも強そうだ」
「……そもそも、私アンタに名乗ったっけ?」
「いや、紗良里から聞いた。そう、今日はその事で話があるんですよ」

紗良里の名前が出てきたことに少なからず衝撃を受けながら、穂月はベッドの向かいにある勉強机の椅子に腰をかけた。

「紗良里を知ってるの?」
「知ってますよ。小学生の初め頃からかな。だいたい、穂月ちゃん家に来たのは紗良里に頼まれたからだし」
「紗良里に?何を」
「まあ、そこは秘密ですけどね」

わざわざ自分の口に指を当ててみせる。
そんな態度が面倒になって、穂月は手を顔の前でひらひらさせた。

「別にいいけどさ。……で、何?神様気取りの悪魔サンは、それで私に依頼を求めに来たの?」
「なにその名称。まあ、そうなんですけどね。自殺するぐらいならその命頂戴ってとこかな。しないらしいけど」
「ご期待に添えず申し訳ありませんねっと。ほら、もう用は無いなら帰ったら?」
「薄情だなあ。そんなんだから友達少ないんですよ?」
「プラハ城並みに巨大なお世話だ」
「宇宙にとっては微細だね」

世界最大の建造物の一つである宮殿の名前を出しながら舌を出してみせる穂月に、悪魔はどこまでもおちゃらけながら言葉を返して見せる。
付き合っていられないとばかりに部屋を出る穂月の背中に声がかかった。

「また、お出かけかい?」
「いや、そろそろ夕飯作らないとさ。まだ居座るつもりならついてきてよ。自分のいない部屋に居られるのは気分悪いの」
「ああ、そうでしたか。これからは廊下で待つことにしよう」

後ろを歩きながら、だから機嫌が悪かったのかと拗ね始める悪魔に穂月は少しだけ笑いを含んだ声をかける。

「まだ来るつもりなんだ、物好きだね。だったらリビングのソファにでも座ってなよ」
「いい考えだ」

満足げに頷いてみせる悪魔に、今度こそ穂月は笑い出したのだった。
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