南柯と胡蝶の夢物語
穂月は廊下を出て突き当たり右の扉を開ける。
そこには大きな白いソファが目立つ、キッチンが続く広いリビングになっていて、悪魔は穂月に続いてそこに入った。
「広いねえ」
「一戸建てなんてみんなこんなものじゃないの。……別に広くなくたっていいんだけどね。適当に座ってて」
「どうも。あれ、これなんなんですか?」
「テレビのリモコン」
応えてる間にも穂月は手早くミディアムの黒髪を纏めて、無地のエプロンをつけている。
そこでテレビのリモコンを物珍しそうにいじってばかりいる悪魔に胡散臭そうな視線を当てた。
「何してるの」
「これ、なんなの?たくさんボタンありますけど、どこ押しても何も起こらないし。りもこんとは」
「リモートコントローラ、日本語にするなら遠隔操作装置かな?その赤いボタンを一回その黒い垂直に立った板みたいなのに向けて押して」
言われた通りにしたようで、テレビから男のアナウンサーがニュースを淡々と読み上げる声が聞こえてくる。
おお、という小さな感嘆の声に少し満足しながら、穂月は肉の下ごしらえに取りかかった。
衝動的な感動は過ぎ去ったらしく、ソファでとろけるようにくつろいでいる悪魔の声が聞こえてきた。
「いや……時代って変わるんですね」
「なにお爺さんみたいなこと言ってるの」
「まあ、年齢的には私は……46億歳?お爺さんとかお婆さんとか呼ばれることには違いないですね」
「うっわあ」
「うわあって。傷つくなあ」
とんとんと人参を乱切りにする包丁の音が響く。
「っていうか、ずっと人間とかの命の取り引きだのをしてきたんでしょう?なんでテレビも知らないのよ」
「馬鹿にしないでくれますー?テレビはもちろん知ってますけど、私の知ってるものと形が違いすぎて気がつかなかっただけ。紗良里の病室にもあるし。紗良里はあまり見ないけど、存在は知ってるし。でも私の知ってるテレビにも、紗良里の病室のテレビにも、りもこんなんか無かったですよ?」
「あれものすごい古い型じゃない……っていうか紗良里紗良里って連呼するな、変態悪魔」
「私が知ってるテレビは立方体でダイヤル式!そっちだって紗良里しか友達いないくせに」
「締め出すよ」
「嫌ですよ。このソファ、気に入った」
「出てけっ」
ふかふかとバウンドしながらソファに沈む悪魔に、キッチンからそんな言葉が浴びせられるが、その声が笑いを含んでいるのも確かだった。
テレビには飽きたのか消して、またどっぷりとソファに身を委ねる悪魔が、不意に思い立ったように尋ねた。
「穂月ちゃん、親は仕事かなんか?」
「二人とも死んだ。随分前だよ」
「ああ、そう……」
さすがに気まずそうに目を逸らす。
それを見て穂月は笑いながら声をかけた。
「いいんだよ、自業自得だったし。一人暮らしも慣れた」
「強いねえ、穂月ちゃんは」
「その穂月ちゃんって、あんたが言うと嫌味にしか聞こえない。穂月でいいよ」
「ほっちゃんは?ほっちゃんっ!」
なにかを含むようにクスクスと笑いながら、そんな提案をする悪魔の声。
それを聞いた穂月は、何を思ったか切っていた玉ねぎを一欠片摘まんでソファの前までつかつかと歩み寄った。
「……?」
首を傾げ、穂月を見上げる悪魔の顔の前でむけて、手に持つ玉ねぎの破片をくの字に折り曲げながら――
「却下」
切り捨てるように言って、パキリとその破片を折った。
みずみずしい玉ねぎの水分が悪魔に向かって弾き飛ぶ。
「え、なに……⁉︎え、痛っ!目、痛あああっ⁉︎」
悲鳴を無視するようにキッチンに戻り、折った破片もきちんと鍋の中に入れながら彼女はぽつりと呟く。
「次は本わさび」
「調理手順の次の話ですよね⁉︎」
「カレーにわさびは入れないよ」