南柯と胡蝶の夢物語
十分経ってもまだぶつぶつと文句を言っていた悪魔だったが、何かを思い出したようにふふふ、と笑い声を洩らした。
「ほっちゃんって、あれでしょう?初めて紗良里と会ったときに、緊張しすぎて『ほっ、ほっ、ほっつきです!』って噛みまくったからほっちゃんになったんだよね」
「……あ、わさび切らしてるじゃん。タバスコでもいいか」
「おーい、そこ!怖い心の声が漏れてますよー」
待て待て、どうどうとおちょくってみせる悪魔に、穂月は鍋をかき混ぜながら悠々と笑ってみせた。
「聞かせてあげてるのよ。謝る猶予を与えるためにね」
「謝るものか。ごめんなさい」
玉ねぎの汁は相当目に染みたらしく、ソファの上で手をついて謝る。
水流のような髪が勢い良くさらりと流れ、動きに合わせるようにして一瞬伸びてまたすっと消えるように縮んだ。
謝る姿よりもむしろそちらに目がいってしまい、ぼうっと見つめているとその視線の先にいる髪の毛の持ち主が顔をあげてにこりと微笑んだ。
「カレー、焦げてる匂いがしますよ」
「え、わっ本当だ!」
焦がしながらも仕上げたカレーをよそい、穂月は結局ソファから動かなかった悪魔に声をかける。
「ほら。こっち座って」
「ソファ。またの名を私をダメにする椅子……」
「元々ダメじゃないの。四億年前から手遅れね。早くー」
「ひどい……あれ?」
カレーとサラダが二つ並んだダイニングテーブルを見て目を丸くする。
その目をそのまま、片一方のカレーの前にいる穂月に向けた。
「なんで、二つ?」
「なんでって、悪魔サンの。カレー、嫌いなの?スパイスから選んで拘ってるのよ」
「いや、私食事なんて取りませんよ」
「なにそれ⁉︎早く言ってよ」
「作ってくれるなんて思わないじゃん」
「……口があるなら」
「は?」
何かを決意したかのように、厳かに低い声を出し始めた穂月に、なんて言ったのかが聞こえなかったらしい悪魔が聞き返す。
途端、穂月はがっと顔を上げて身を乗り出しながらそんな悪魔を睨んだ。
「喋る口があるなら食べれる!」
「いやいやいや。ほら、蝉とか思い出して下さいよ。あの子達、鳴いてる器官と食事の器官は――」
「……いいわよ、じゃあ」
がっくりとしたように座り直すと、そのまま穂月は「いただきます」とだけ呟いて、黙々と食事を口の中に運んでいった。
カチャカチャと微かに食器とスプーンがぶつかる音がする。
目の前に置かれたカレーを見ながら、悪魔はそっと躊躇うようにして言った。
「……怒らないでくださいよ」
「怒ってないわよ。あんた辛いの苦手そうだから甘めの味付けとスパイス選んで後悔してるだけ」
「じゃあ、泣かないでくださいよ」
「なに言ってるんだか」
僅かに声をうわずらせながら、穂月は自嘲するように言葉を吐き捨てた。
「一人の食事なんて慣れてるんだから」
食器を下げながら、まだ自分用に用意された食事を見つめている悪魔に声をかける。
「本当、変なところで気にしなくていいから。ラップかけて明日うどんにでも入れちゃうし」
「うん。……ごめん」
「しおらしくなりすぎよ。羽が萎みすぎて気持ち悪い」
「人の羽を気持ち悪いだなんて言わないで下さいよ、もう」
伸びをするように大きな羽をうんと伸ばすと、さて、と悪魔は立ち上がった。
「では、そろそろお暇しまーす。またソファに溺れに来ますから、よろしく」
言うや否や、窓を大きく開けて躊躇いもせずに身を空へ投げた。
瞬間羽がばっと開き、呆然とする穂月の前で羽ばたきながら去って行ったのだった。
「……言い逃げかい」
悪魔に言葉を返そうと開いた口は、そのまま独り言を呟いた。