南柯と胡蝶の夢物語

9,花鳥風月


9,花鳥風月


穂月は自室のベッドで、いつも通りに目を覚ました。
紗良里を事故に遭わせてしまった時ぐらいからだろうか、頻繁に見るようになった夢がある。
三日に一回は見る幸せな悪夢だ。
夢を思い出して、穂月はそっと耳に手を当てる。
ついさっきまで、この耳は幸せな音を聞いていたのだ。

「穂月、穂月」

男の人が優しく自分の名前を呼ぶ声だった。
女の人の和やかな笑い声もする。
顔はよく、覚えていない。
けれど自分は夢の中でその二人にお父さん、お母さんと呼んでいた。
高校生のままの自分で。
料理上手なお母さんに、頭が良くてなんでも教えてくれるお父さん。
とっても仲良しな家族で囲むダイニングテーブル。

こうやって文字にすると、夢と現実はあまり変わらない。
だけど、現実の二人はもっと目がぎらぎら輝いていて、もっと鬱らで、もっと危なっかしくて、もっと普通じゃなかった。
五秒ごとに考えが変わってしまうような不安定さを持っていて、それなのに二人は気が合うらしく同じように狂っているからタチが悪かった。

だからだろうか、穂月は望んでいたような普通で幸せな典型的な家族の夢をよく見る。
それが妙に昔の記憶と一致して、なのにもっと幸せで、それでなお、もう二人はいないのだからどうも苦しくなってしまうのだ。
世界中の人を、そして親友をも苦しめる濁花を作った本人達でもあるため、恨むべきなのかもしれないとも思いながら、濁花を作ったのは故意でなかったとも聞いているために、もうこの世に存在しない両親を特別憎むことなどできなかった。
小学生まで側にいた両親の方こそが錯覚で、しかもまだ生きていてひょんなことで帰ってこないかと思うこともある。

「穂月」

また、誰かが自分の名前を呼んでいる。
お父さんともお母さんとも違う、誰かの声がする。

「穂月」

どこから聞こえてくるのかわからないが、今は邪魔をしないで欲しかった。
ずっと今しがた見ていた夢に浸っていたかった。
両親が狂って自殺した現実に戻りたくなんてなかった。
現実だと思っているこれは、何かの間違いに決まってる。
小学生の頃の記憶のあの二人こそが幻で、健全な優しい両親は他にいてこの家に帰ってくるかもしれない。
そうだ、きっとそうだ。

「穂月……おーい、穂月」
「邪魔しないで!」

咄嗟に口を衝いてから、はっとして声がする方に首を向ける。
穂月はいつの間にかに自分が着替えてキッチンに立っていたことに気がついた。
それから、声の主の正体についても。

「邪魔もなにも……いや、それどうするつもりかなって……」

コバルトブルーの翼をぱたぱたと動かしながら、少し面白そうな声音で呟いて穂月の手元を指差す人影。

「え?」

人影――妖精が示した自分の手元を見おろすと、猫の手で白い鶏卵をまな板の上に押さえつけて包丁で切ろうとしている自分の手に始めて気がついた。

「生卵って、なに、包丁で切るものなんですか?」
「うるさいうるさい!そんなわけないでしょ」

意識的に作ったような真面目な顔で聞いてくる妖精に舌を出して、包丁を置いて卵を器に割る。

「なんだ。新しい料理かと思ってたんですけどね」
「料理もなにも無いわよ……ぼーっとしてただけ」
「ぼーっとって言うより寝てたみたいでしたけどね。包丁と卵持ったまま」

くすくすと笑い出した妖精を横目に、確かに寝ぼけ過ぎていた自分に反省する。
卵を解きほぐしながら穂月は微かに首を傾げた。

(あれ、なに考えてたんだっけな……)

今日は土曜日。
綺麗に晴れた空を見ながら、穂月は今朝見た夢を思い出そうとしていた。
ほんの何十分か前に見た夢の記憶は、もうかなり薄れてしまっているのだった。
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