南柯と胡蝶の夢物語
数年後。
穂月は家に着くと、「た」と小さく言って一瞬動きを止めた。
ただいま――そう言おうとした彼女の口から、代わりにため息が吐かれる。
小さく首を振り、身体を引きずるようにして自室に入って行った。
なにをしたわけでもないが、あの日から一段と身体が重い。
気持ちの重さということだろうか。
そんな言葉が『あいつ』の中性的な声で頭をよぎり、穂月の表情を少し和らげた。
それで始めて、今まで自分がいかに顔の筋肉を強張らせていたのかを知る。
制服から部屋着に着替えながら、穂月は紗良里との約束を思い出していた。
将来の夢と言ってもいい。
二人で一つのゴールを設定して、人生の選択の基準と目標を作ったのだ。
紗良里は、結局高校には通わない選択をした。
穂月は、今まで通り学校にあと二年と数ヶ月通い続ける選択をした。
それも、その将来の夢を二人で実現させるための分担だった。
学校で学べる全てと学べない全てを、二人で学んでこよう決めたのだ。
病院という白い牢獄を出た紗良里体力は無いもののすっかり元気になり、あちこちに勉強に行っている。
穂月も学校とは他に独学で経済学を学び、手元にあるお金をいかにして増やすかをも学んでいる。
そんな生活をしながら彼女達は二人で一緒に穂月の家に住んでいた。
だからかあまり寂しさは感じていなかった。
がらんどうとしたリビングも久しぶりだった。
今日から紗良里が二泊三日泊りがけでボランティア活動をしているため、一緒に住み始めてから初めて一人での夕飯だ。
穂月は妖精がいなくなったことに対してあまり実感は湧いていない節がある。
いつかまたひょっこり帰ってきて、あの日々と変わらずソファに座っている気がした。
穂月は久しぶりに一人で黙々と夕食を作り、無言で食べてから支度をして布団に入った。
朝もいつも通りに起きて、いつも通りに学校に行って、スーパーマーケットに寄りながらもいつも通りに帰って来た。
玄関を開けて、靴を脱ぎながらまた「た」とだけ息のような声を洩らす。
そこで、自分で勝手に恥ずかしくなりながら「紗良里もあいつも、いないんだったか」と呟いた。
「そっか、いるわけないよね」
リビングのがらんとした空気に、今更ながら涙が出てくるのだった。
もう、あの綺麗な少し皮肉屋のあの人には会えはしないのだ。
本当に今更だった。
会えなくなるのは随分前から分かっていたというのに、今更涙が出てきてしまう。
もう、止まらなかった。
穂月は部屋の隅で、ひたすら一人で泣き続けるのだった。