たかしと父さん
「さら」の章
 まず、最初に自分と自分が幾重にも交錯するこの世界を自覚して以来の疑問「何世代経ったのか」についての考察をやめる。その疑問について悩んでいた折に世代すらも緩やかにループしていたらと仮説を立てるに至り、それ以降、その私「さら」が何代目かについて考えるのをやめた。また、その発想は私が他の世代の全ての「さら」と同一人物であることを認めることになり、表題になっている「たかしと父さん」が同一人物であるということになる。それが事実だとすれば、私と高志の結婚はいかにも背徳的なものになってしまい、私の(恋愛によって支えられるチープな)アイデンティティーの崩壊にもつながる。結果、私は、あくまでもほかの世代の「さら」と共有しているのは、「さら」としての配役が割り当てられている0歳から19歳までの期間と、「さら」が死ぬ病院で養護教諭資格を目指す学生として覚醒する19歳から高校の養護教諭として次の世代の「たかし」と「さら」を見送って学校を去る37歳までの期間に限られると結論を出した。本章では私、篠宮沙良の視点で「たかしとさら」の物語を振り返っていきたい。
 私、篠宮沙良の最も古い記憶は以外にも病院の外だった。厳密にいうと病院を一歩出たところの記憶で、父と病院から出るのがとても嬉しかったのを記憶している。自身には何歳であったのかという記憶はないが、伝聞をもとに分析すると2歳ほどであったろうか。その頃から数年飛んで次の記憶は、父が病院の中で会計か何かをするために一時的に私から離れたタイミングで若い女性が近づいてきた。回りくどい書き方を避ける為に書くが、これは前の世代の私で、火葬にされてしまった産みの母親とは異なるが結局のところ私の母親だ。私はそれ以降も巧みに変装(イメージチェンジともいう)した母親に何度も接触されている。これは娘に会いたい一心だった自分の19歳以降の記憶とも合致しているが、それを書き始めると時系列の問題で混乱を生じるのでまだ書かない。ともかく、当時の幼かった私には病院などでいつも父のいない隙に声をかけてくれる「おねーさん」がいたということは間違いない。彼女は専門外だが私の難病について研究しているのだと、そして病院の医師や父には内緒で私の病気について教えてくれたことを覚えている。これによって私は自分の寿命が20歳ほどで尽きることを知り、それに気づいたことを父親に隠しつつ、自分の人生と母の人生の類似性について深く考察するようになっていく。意外なことに自分の数奇な運命を子供ながらに恨んだ期間は短かった。そもそも、多少むずがったところで男親には病院通いが嫌なだけだと映ったようだ。それこそ、病院の喫茶店でアイスクリームを食べさせてもらえた記憶の方が勝っている。どちらかというと寿命が短い事よりも、体育の授業にまともに参加できないことの方が恨めしかった。小学校でも中学校でも高校でも私の体操服だけが1年通して真っ白のままなのがコンプレックスだった。名札を付けたところで使うでもなく、特に小学校では運動会の入場行進以上の運動は基本させてもらえなかったので辛かった。しかも、小学校の高学年になると要らない知識を身に着けた男子生徒から「生理女」とあだ名をつけられて真剣に腹が立った(が彼らはめちゃくちゃに叱られていた)。中学校に入るころになるとその生理で授業を見学する同級生がちらほらいてくれたので、何となく体育の授業は雑談の時間のようになっていたが体育・運動には長い間コンプレックスがあった。また、どうしても書き加えたい情報として、小学生のころ「他の子たちは登下校で息が上がらないんだ」という事実を知って愕然とした。この辛さが常に勝っていたため、父も「体が弱い事を辛いと思っているんだろう」と考えてくれていたようで、よもや自分の娘が小学校のうちから「20歳ぐらいで死ぬ」こと、ひいては母の享年と重ね合わせて「19歳で他界する事への自覚」を持って生きていたとは知りも思いもしなかったのだろう。私は今思い出しても滑稽なぐらい着実に準備を重ねていた。私のお手本は母の生前の写真で、写真で見る母の高校在学中や結婚当初の姿に自分が早く追いつかないかとやきもきしていた。私は自分の寿命を自覚した時から、自分も母と同じように15才で恋をして(実際には「恋をしてもらって」だが)、死ぬ前に間に合うように子供を産むという決意があった。決意を実行に移したのは中学生の頃だろうか、ぼうっとテレビで教育番組を見ていたら何かの鳥がメスの気を引くために美しい巣作りをしている映像を見た。「これだ」と確信した。そもそも、人間以外の動物の世界では子を産んで母が死ぬなんてことは日常茶飯事で、私は産まれた川に帰り着いて産卵して一生を終えるサケなどに妙な連帯感を持ってすらいた。だから、淡々と生命のサイクルを築いている生物界に対する憧れみたいなものもあった。まず手始めに中学校の制服の着方に着目した。私の主観では決して派手ではない自分の顔立ちで、どうやったら地味に見えずに正統派で清純派の美少女然と振る舞えるか考え尽くした。鏡の前では目を細めて普通に笑顔を作る練習と目を開けて笑顔を作る練習をした。私のことをある程度知る女子には、私が虎視眈々とイケメンの男子を狙う隠れ肉食系ではないかと思われてもいたようだけど、私は彼女たちに対してナゾの優越感すら抱いていた。その頃は、あわよくば母の出産年齢の19歳より先に子供を産んでやろうという野望を抱いていたので、彼氏さえ作ったらあっという間に子供を宿して出産する(さらにあわよくば生き延びる)気概に満ちていた。これは今思い出しても歪んだ思春期だとおもうが、歪みのない思春期なんてそれは無かったのと同じようなモノだと考えてしまおう。結局のところ、私は持て余した性欲を・・・いや、私は来る時代に向けての性欲を持て余していただけなのだ。そこのところは世の中の女子と何も変わらない。同世代と比べて不安感が少なかったのは否めない。なぜならば不安になるも何も私は子を遺して死ぬ気であったし、実際にそうなった。これは「たかしとさら」という舞台の配役を演じる人間としてはあまり好ましい開き直りではなかったのかもしれない。実際、過去に幾度か自分の行動に強くブレーキがかかる感覚を体験しているので、そうした違和感は感じていた。ただ、行動はまだしも、さほど強く心情をコントロールされたつもりはなかった。これは、私が演じた「さら」には作品として評価される「オンショット」と誰にも見られていない「オフショット」があったのではないかと生半可に結論付ける。「たかし」の主観で語られる「たかしとさら」の物語を想像するに、私が「さら」を演じていたのであろう期間ですら、トータルではオフショットのほうが多かったのだろう。それは養護教諭を目指して勉強していた期間から、養護教諭として高校に赴任してからの期間においてはさらに顕著で。どちらかというと「自分が世界を動かしてる大きな力によって配役に組み込まれている」感覚より、高校の養護教諭の仕事の方が忙しかった。このあたりは詳しく後述しようと思うのでこの程度に留める。
 当時の主観と、現在の感覚の両面で記述しているためいささか混沌とした文章になっていることは否めないが、そもそも文章を書くことに秀でた人間ではないためご容赦いただきたい。私、篠宮沙良の手元にとうとう高校のブレザーが届いた3月。当然のように制服の着こなしを毎日自室でチェックした。ある程度、男性をターゲットとした著作物を見ると、清純派のカテゴリーは簡潔に定義されていて、それを参考にした。実際には中学校を出たばかりの子供だったので、まだまだ子供向けの可愛い商品に執着はあったのだが、そのパステルカラーの路線は捨てて、同級生の男子にとって敷居が高すぎず魅力的な女性であろうとした。今にして考えると、そこに多くの子供らしい勘違いがあったのは否めないが、まあ結果が良かったと思うので良しとしよう。入学説明会で学校に行った際に養護教諭の高木と名乗る女性が声をかけてきた。これはもはや言うまでもないが前世代の私の生まれ変わった姿であるが、幼いころ病院であったことがある「おねーさん」だということはすぐに分かった。私は高木によって仕組まれた再会を喜び、そして、高木によって洗脳にも近い刷り込みをされる。まあ、後に同じことを自分がするのだが、こんな会話だった。

「あれ?結局、中学校まで彼氏出来なかったの?」
「・・・はい」
「高校が勝負だね。彼氏ができる秘訣があるんだけど知りたい?」
「へ?そんなのあるんですか!?」
「最初に告白してきた奴が少しでも『アリ』だったら駆け引きしないで即OKすればいいだけ。だって、自分から告白する勇気とかないでしょ?」

実際には、自分から行く勇気がなかったわけではないが、この言葉がなかったら、高志から鼻水まみれの告白を受けた時に「考えさせてください」と言ってしまっていただろう。こうやって答えるのが正義だとなんとなくそう思っていたからだ。「自分から告白する勇気がない」と言われて癪だったので、手ごろな男子を見つけて自分から行こうかなと考えていたころXデーはやってきた。居心地が良くて昼休みを保健室で過ごすのが半ば習慣化していた私の前に、入学した日に隣に座った新田高志が膝でスライディングするようにしてやってきて、涙と鼻水を垂れ流して告白してくれたのだ。とにかく、澄んだ鼻水と涙がこんなにも出るものかと半ば呆れ、半ば感心して見ていたのを覚えている。あれは高志としては間違いなく一世一代の告白だったのだと思うし、その当時ですらその気迫は充分だった。でも、そのあまりの見た目の面白さに噴き出すのを堪えて、まずは状況を解決しようとティッシュ箱を持って駆け寄ったのも鮮明に覚えている。養護教諭の高木さんはその一部始終を「偶然にも」ドアの死角から見ていて音が出ないようにジェスチャーで拍手していた。私はその新田高志の鼻水を拭きながらその意味が分からないでいたが、私が熱望していた彼氏がこの男かと思うとやや驚いた。まあ、可もなく不可もないし、きっと、彼も人生の中で常に鼻水を垂らしているわけではないのだろう。試しに頭の中で二人で並んで学校から帰るところを思い浮かべてみたら、すごい美男子と並んで歩くよりも肩がこらなさそうで良かった。そう考えたあたりでストンと納得がいって、目の前の暫定的に「運命の人」である新田高志がメソメソしているのもなんとなく可愛く見えてきた。ここが私の大誤算だったのだが、私はなんとなく自分を母と重ね合わせて、将来は父のような人間と結ばれるのだろうと勝手に思っていて結果100%その通りになったのだが、娘ではなく、同世代の女性として父を見た経験など一度もなかったので、その瞬間は「私はずいぶん父とは違うタイプの男性と恋をするのかなあ」と考えていた。若気の至りという言葉とも違うと思うが、これは大変な思い違いだった。
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