たかしと父さん
 高級住宅街の坂を抜けると古びてはいるけど丁寧に手入れされているアパートがある。そこの1階の角からひとつ手前に夫、篠宮高志と私の沙良の家はあった。靴箱の上には私の母親の写真と、私たちの結婚式の写真が並べて飾られている。高校卒業して結婚式を挙げたら、私の長年住んでいたアパートへ夫が越してくることになっていた。しかし、その前に新婚旅行にいくのでアパートと車を僕らに譲り渡したので出て行くという。私たちは引き留めようとした。

「お父さん、何も出て行かなくても・・・」

清々しい顔で空を仰ぎ、父は答えた。

「僕の妻はさらを産んで亡くなったんだ。知ってのとおりだけど。」
「・・・うん。」

あまり聞きたくない話だ。

「だから、僕とあいつは結婚してから、あんまり沢山ものを見る機会がなかったんだよ。・・・だから」
「・・・」

ずっと前から考えて用意していたのだろう。アパートのお父さんのものはきれいさっぱり荷造りされていた。

「・・・代わりに僕が見に行くんだ。お転婆娘の面倒はもう疲れた。全部、君に任せるよ。」

高志は引き留めるのをあきらめて父の荷物を運び出すのを手伝い始めた。

「お父さんいつ帰ってくる?」

お父さんは良く読み取れない表情をして笑った。

「沙良、お父さんはもうすでに一人の『さら』と一度お別れしてるんだ。」
「・・・」

お母さんのことだ。

「本当はお前と一緒にいてやらないといけないって分かってるんだけど・・・もうあんな思いはご免なんだ。」
「・・・」
「許してくれとは言わない。それは都合よすぎるもんな。」
「・・・良いよ、私には高志がいるから。お父さん、お母さんの思い出と幸せになって。沢山きれいな場所見せてあげて。」
「沙良・・・」

私は泣かなかった。

「もう、本当に帰ってこないつもり?」

お父さんはずっと目を細めて微笑んだままだった。

「そのつもりだ。」
「じゃあ、これでさよならだね。」
「ああ・・・さよならだ。・・・でも手紙書くよ。」
「最後にもう一回『お父さん』って呼んでいい?」
「ああ・・・」

アパートの表で高志の「お義父さん荷物全部タクシーに積み込めましたよ」と言う声が聞こえる。

「お父さん、ありがとう、愛してるよ。」

その言葉を聞いてお父さんは目を見開いた。

「ハハ、そうか。勿論だ、お父さんも沙良のこと愛してるよ。ありがとう、愛してるよ。」

私が見た父の最後の姿は手を振りながらタクシーで去っていく姿だった。タクシーが消えて行った路地に向かって高志はずっと頭を下げ続けていた。今日の式でも泣かなかったのに久しぶりに見る高志の泣く顔だった。
 この日以来、お父さんは本当に帰ってこなかった。というか、お父さんはお母さんのところへ帰って行ったのだ。その時ですら、私はお父さんがお母さんのところへ帰って行ったと思っていたし、それは紛れもない事実だった。
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