たかしと父さん
高木沙良はそれまで男性にあまり興味を持ったことがなかった、そして、半ば意図的に男性から見ると敷居が高い女性として存在していた。これは信じて貰えないかもしれないが、間違いなく私のもう一つの姿だった。同世代の自分より容姿が良い女性と比較されることにうんざりしながら、その反面、自分は他人と自分を潜在的に比較して見えない優越感をくすぶらせていた。恋を夢見た時期もあったが、自分に好意を寄せるタイプの男性を嫌悪する傾向にあった。もし、篠宮沙良が自分の寿命の事を知らず、普通に父母が二人とも存命な家に生まれ育っていたら、恐らくこうなっていったであろう人格が高木沙良だった。高木沙良として目を覚ました私は、あくまでも篠宮沙良の記憶をも受け継いだ高木沙良であって、篠宮沙良が人格を乗っ取ったわけではなかった。自宅に帰ると、心の中は両親に対する不満で一杯だった。高木沙良と言う人間はご飯を食べさせてもらえて、屋根と壁と床がある家に住んで、大学の学費を出してもらって、そして、人並みに愛情を注がれているこの状況下で、どれほど理不尽な要求を、どれほど多く両親に対して抱えているのか自覚していなかった。そして、それは至極自然に湧いてくる感情で、私を強く苦しめた。私は自分の中の家庭に対して湧き上がる不満を注意深く観察し、それらを一つずつ潰していく作業にかなりの労力を割かねばならなかった。悪い事だけではなかった。高木沙良はいたって健康な身体を持っていた。走っても疲れず、階段の上り下りに休憩が必要ない。バスに立って乗ることも、長時間電車に乗ることも苦ともしないし、不恰好で大容量のショルダーバッグを愛用していて肩に食い込む重みに足を取られることもなければ、篠宮沙良だったころにはあまり縁がなかった実用的で良く走る自転車も持っていた。また、牛乳ぐらいは一気飲みできた(そのあと緩くなるが、それが必要なときだってある)。この肉体は私の記憶の半分を占める篠宮沙良と比べると鋼鉄でできているのではないかと思うほど強靭だった。半分は高木沙良の19歳までの記憶なので、当然のように逆上がりができたり、50m足を突かずに泳げたりするのだが、とにかく衝撃的だった。その頃の私はそうした変化に徐々に慣れながら、あいた時間があると病院の新生児室へ赴き、ガラス越しに「さら」を見ていた。疑問なのは難病だと聞かされていた割に新生児室の「さら」がさほど手厚くされている様子がないことだ。そういえば篠宮の記憶をたどって自分の病名を思い出してみると複雑先天性ナントカだった気がする。その割には特別何かされている様子がない。というか、病名も正確に思い出せない。とにかく娘の病状(?)を正確に知るためにも、なんとしても学問を修めてやると決意した。これも、高木沙良の肉体のおかげだ。
娘はほどなくして病院を出て行った。生まれ変わったところで娘を育てることができないと言う事実に対して、心の中で決着はついていた。感覚的には「おば」ぐらいのものだろうか。寂しくないわけではない。夫も娘もいつでも会いに行ける範囲にいるのだ。実際、どうしても我慢できずに親の車を借りて懐かしいあのアパートを見に行く夜もあった。高木沙良は程無くして20歳の誕生日を迎えた。当然の結果だったが、高木の両親の前で思わず泣いた。
「お母さん、丈夫に産んでくれてありがとうね。」
篠宮の方の生みの親には申し訳ないが、これもれっきとした私の本音だった。いつも、突っ張るばかりの娘の豹変に高木両親も動揺を隠しきれなかったが「あいつも大人になったな・・・ハタチだもんな。」とそんな会話が漏れ聞こえた。まさか、そんな娘がこのあと18年近く異性と付き合わないつもりでいるだなんて毛頭考えていない両親に少し申し訳ない気がした。大学も3年になり実習が始まる、その実習先の一つがあの大きな病院だった。
私は複雑先天性心疾患に興味があるふりをして(実際あったが)実習先とは無関係な産婦人科や小児科の関係者と仲良くなり情報を集めた。当たり前だけれど患者の個人情報は一切聞き出せないため、娘の「さら」の病名に行き当たるにはかなりの粘り強さと忍耐力を必要とした。私は実習が終わった後も「複雑先天性心疾患を持つ児童の養護によるバックアップ」という卒業論文を書くと言い張り、ゼミの教授にやや呆れられつつも病院に潜伏し続けた。結論は「分からない」だった。私は悩んだ。篠宮沙良として抱えていた難病は正体不明の病気で、たまたま篠宮さらの主治医でもあった心臓内科のトップによる診断が余命およそ20年と出ただけで、多少、医学に関わる学生の私には根拠も診断基準も不明瞭だった。そんな口から出まかせみたいな診断で私と父と夫と娘の人生は狂わせられ続けてきたのかと思うと、調べれば調べるほどに怒りがわいてきた。私は廊下で待ち伏せるとその先生を直撃した。
「複雑先天性心疾患について熱心に研究している方はあなたでしたか。」
「・・・先生がご担当されている篠宮さらさんについてですが・・・」
そして、私は廊下で待ち伏せている。
「・・・あっれ?」
困惑していると先生が廊下へ出てきた。私はデジャブか何かだと思って、予定通り心臓内科のトップに直撃した。
「複雑先天性心疾患について熱心に研究している方はあなたでしたか。」
「・・・先生がご担当されている篠宮さらさんについてですが・・・」
そして、私は廊下で待ち伏せている。
「・・・なにこれ!?」
廊下の壁際で脱力してへたり込むと、視界がぼやけてきた。
「良くないですね。誰か呼びましょう。」
倒れかけの私に気づいたのは、そこへ「ちょうど」現れた先生その人だった。
「いえ、立てます。それより先生、お伺いしたいことが・・・」
「私に?何でしょう?」
私はふらつきながらも立ち上がり自己紹介をした。
「養護教諭になるために勉強しています。高木沙良と申します。」
「複雑先天性心疾患について熱心に研究されてるそうですね?伺ってますよ。あなたでしたか・・・」
私は質問の方向を変えてみた。
「例えば複雑先天性心疾患を持っている生徒を一般の学校で受け入れることは可能でしょうか?」
先生は私の体調を気遣いながら、可能なケースや学校に求められるバックアップについてかいつまんで説明してくれた。
「これ、私の名刺です。また、お時間と体調が宜しいときにご連絡ください。」
頭を下げて、速足で離れる先生を見送ると、奇妙な体験について整理を試みた。今の「篠宮さら」について情報を引き出すことはできないということなのだろうか。ここまで「無理やりな体験」は高木沙良としての覚醒して以来だろうか?その後も研究の都合で篠宮さららしき人物の症例を話されることはあったが、診断の根拠は長い間わからなかった。でも、ある日、不意にこんなことを仰った。
「『複雑』といっても難しいやつは全部『複雑』ですからね。今まで誰も診たことがない症例も入ってくるんですよ。」
「・・・はあ。」
「それで、手術によらないと改善しないことが分かっている状態で心臓外科がお手上げになったら、もう対処していくしか無くなっちゃうんですよね。・・・その時に余命を宣告することもしないこともできるんですが」
「余命をですか」
「経験が役に立たないんですよね。過去に似た症例が多くあったらそれを基準に考える方法もあるんですが・・・」
「先生のおっしゃられているケースではその『患者』の『母親』にしか同じ症例がない・・・と言うことでよろしいですか?」
先生は驚いたようだ。
「ご存じなんですか?篠宮親子の事を・・・」
私はどう答えるか少し悩んだ。
「遠い親戚や知人みたいなものです。あちらは私のこと知りませんが。」
「ああ、そうですか・・・」
根拠は「母親」に下された診断が「娘」にも引き継がれたということだろう。しかし、それでは最初の診断は誰が下したのだろうか。そもそも、最初なんてあるんだろうか。私はその件についてこれ以上深く追求しないことにした。
私が大学の卒論を書きあげる頃、「さら」は少し遅めに歩けるようになり、次第に走れるようになっていった。病気を抱えていることは分かっていても、「さら」はすくすく成長した。篠宮高志はもうこの頃にはすっかり大人の顔をしていた。極力、高志と接触しないように気を付けながら、時折、数秒間だけ「さら」と交流できることもあった。あくまでも、通りがかりの女性が子供をあやすように心がけた。心臓内科の先生は、私が「遠い親戚や知人」と言ったことは忘れてしまっているようだ。特に妙な目で見られることも無かった。大学を卒業して社会人になったころ、久しぶりに時間ができて病院へ行くと「さら」が一人で会計の長椅子に座っていた。高志は会計の列に並んでいる。
「あら、お一人ね?」
何気なく(見えるように)声をかける。
「なんさいでしぬの?」
「へ?」
「さらはなんさいでしぬの?おねーさんはしってる?」
ふいに、思いもよらない質問だった。私はそれまで「おねーさん」の側からその情報を得たのだと思っていた。逆だった、わたしが「おねーさん」に質問したのだ。
「さらちゃんのお母さんといっしょ、だから大丈夫。でも、みんなには内緒だよ?」
「そうかー、やっぱり、おかーさんといっしょかー。みんなにはないしょね!」
そういうと「さら」ちゃんは笑った。釣られて私も笑った。皆には内緒。
娘はほどなくして病院を出て行った。生まれ変わったところで娘を育てることができないと言う事実に対して、心の中で決着はついていた。感覚的には「おば」ぐらいのものだろうか。寂しくないわけではない。夫も娘もいつでも会いに行ける範囲にいるのだ。実際、どうしても我慢できずに親の車を借りて懐かしいあのアパートを見に行く夜もあった。高木沙良は程無くして20歳の誕生日を迎えた。当然の結果だったが、高木の両親の前で思わず泣いた。
「お母さん、丈夫に産んでくれてありがとうね。」
篠宮の方の生みの親には申し訳ないが、これもれっきとした私の本音だった。いつも、突っ張るばかりの娘の豹変に高木両親も動揺を隠しきれなかったが「あいつも大人になったな・・・ハタチだもんな。」とそんな会話が漏れ聞こえた。まさか、そんな娘がこのあと18年近く異性と付き合わないつもりでいるだなんて毛頭考えていない両親に少し申し訳ない気がした。大学も3年になり実習が始まる、その実習先の一つがあの大きな病院だった。
私は複雑先天性心疾患に興味があるふりをして(実際あったが)実習先とは無関係な産婦人科や小児科の関係者と仲良くなり情報を集めた。当たり前だけれど患者の個人情報は一切聞き出せないため、娘の「さら」の病名に行き当たるにはかなりの粘り強さと忍耐力を必要とした。私は実習が終わった後も「複雑先天性心疾患を持つ児童の養護によるバックアップ」という卒業論文を書くと言い張り、ゼミの教授にやや呆れられつつも病院に潜伏し続けた。結論は「分からない」だった。私は悩んだ。篠宮沙良として抱えていた難病は正体不明の病気で、たまたま篠宮さらの主治医でもあった心臓内科のトップによる診断が余命およそ20年と出ただけで、多少、医学に関わる学生の私には根拠も診断基準も不明瞭だった。そんな口から出まかせみたいな診断で私と父と夫と娘の人生は狂わせられ続けてきたのかと思うと、調べれば調べるほどに怒りがわいてきた。私は廊下で待ち伏せるとその先生を直撃した。
「複雑先天性心疾患について熱心に研究している方はあなたでしたか。」
「・・・先生がご担当されている篠宮さらさんについてですが・・・」
そして、私は廊下で待ち伏せている。
「・・・あっれ?」
困惑していると先生が廊下へ出てきた。私はデジャブか何かだと思って、予定通り心臓内科のトップに直撃した。
「複雑先天性心疾患について熱心に研究している方はあなたでしたか。」
「・・・先生がご担当されている篠宮さらさんについてですが・・・」
そして、私は廊下で待ち伏せている。
「・・・なにこれ!?」
廊下の壁際で脱力してへたり込むと、視界がぼやけてきた。
「良くないですね。誰か呼びましょう。」
倒れかけの私に気づいたのは、そこへ「ちょうど」現れた先生その人だった。
「いえ、立てます。それより先生、お伺いしたいことが・・・」
「私に?何でしょう?」
私はふらつきながらも立ち上がり自己紹介をした。
「養護教諭になるために勉強しています。高木沙良と申します。」
「複雑先天性心疾患について熱心に研究されてるそうですね?伺ってますよ。あなたでしたか・・・」
私は質問の方向を変えてみた。
「例えば複雑先天性心疾患を持っている生徒を一般の学校で受け入れることは可能でしょうか?」
先生は私の体調を気遣いながら、可能なケースや学校に求められるバックアップについてかいつまんで説明してくれた。
「これ、私の名刺です。また、お時間と体調が宜しいときにご連絡ください。」
頭を下げて、速足で離れる先生を見送ると、奇妙な体験について整理を試みた。今の「篠宮さら」について情報を引き出すことはできないということなのだろうか。ここまで「無理やりな体験」は高木沙良としての覚醒して以来だろうか?その後も研究の都合で篠宮さららしき人物の症例を話されることはあったが、診断の根拠は長い間わからなかった。でも、ある日、不意にこんなことを仰った。
「『複雑』といっても難しいやつは全部『複雑』ですからね。今まで誰も診たことがない症例も入ってくるんですよ。」
「・・・はあ。」
「それで、手術によらないと改善しないことが分かっている状態で心臓外科がお手上げになったら、もう対処していくしか無くなっちゃうんですよね。・・・その時に余命を宣告することもしないこともできるんですが」
「余命をですか」
「経験が役に立たないんですよね。過去に似た症例が多くあったらそれを基準に考える方法もあるんですが・・・」
「先生のおっしゃられているケースではその『患者』の『母親』にしか同じ症例がない・・・と言うことでよろしいですか?」
先生は驚いたようだ。
「ご存じなんですか?篠宮親子の事を・・・」
私はどう答えるか少し悩んだ。
「遠い親戚や知人みたいなものです。あちらは私のこと知りませんが。」
「ああ、そうですか・・・」
根拠は「母親」に下された診断が「娘」にも引き継がれたということだろう。しかし、それでは最初の診断は誰が下したのだろうか。そもそも、最初なんてあるんだろうか。私はその件についてこれ以上深く追求しないことにした。
私が大学の卒論を書きあげる頃、「さら」は少し遅めに歩けるようになり、次第に走れるようになっていった。病気を抱えていることは分かっていても、「さら」はすくすく成長した。篠宮高志はもうこの頃にはすっかり大人の顔をしていた。極力、高志と接触しないように気を付けながら、時折、数秒間だけ「さら」と交流できることもあった。あくまでも、通りがかりの女性が子供をあやすように心がけた。心臓内科の先生は、私が「遠い親戚や知人」と言ったことは忘れてしまっているようだ。特に妙な目で見られることも無かった。大学を卒業して社会人になったころ、久しぶりに時間ができて病院へ行くと「さら」が一人で会計の長椅子に座っていた。高志は会計の列に並んでいる。
「あら、お一人ね?」
何気なく(見えるように)声をかける。
「なんさいでしぬの?」
「へ?」
「さらはなんさいでしぬの?おねーさんはしってる?」
ふいに、思いもよらない質問だった。私はそれまで「おねーさん」の側からその情報を得たのだと思っていた。逆だった、わたしが「おねーさん」に質問したのだ。
「さらちゃんのお母さんといっしょ、だから大丈夫。でも、みんなには内緒だよ?」
「そうかー、やっぱり、おかーさんといっしょかー。みんなにはないしょね!」
そういうと「さら」ちゃんは笑った。釣られて私も笑った。皆には内緒。