キスはワインセラーに隠れて
「間抜け面してないでメモるなりなんなりしたらどうだ? 別に覚える気がないならいいけどな」
須賀さんはそう言うとスッと私の横を通って作業台の方へ戻って行く。
「――あ。もしかして“ヴァプール”……!」
気付いた時にはもう私に背を向けていた彼。
その手元では、ラディッシュが彼の包丁さばきによって薔薇に変わっているところだった。
……意外に、優しいとこあるんだ。
教えるなら教えるで、もっとわかりやすく言ってくれればいいのに。
ちょっと不満に思いながらもヴァプールの意味をメモにきっちり書き込むと、私は厨房を後にしてホールに出る。
あとは軽く掃除と、カトラリーの補充と……
あ。テーブルの照明に使うキャンドルも、小さくなり過ぎたのがないか確認して、と。
頭の中で自分のやるべきことをくるくるとシミュレーションしながらホール内をうろうろしていたときだった。
「――おい、タマ」
従業員みんなが忙しく働いている声や物音が一瞬にして遠ざかり、私は直立不動になって固まる。
……やばい。ヤツが来た。
須賀さんなんかよりもっと手強くて、わけわかんなくて、何故だか私をネコみたいなあだ名で呼ぶ男が。
「なな、なんでしょう?」
できれば半径一メートル以内に近付かないでほしい。目も合わせたくない。
私がそうやって彼を避けてることに、本人だって気づいてるはず。
なのに、なのに。
「ちょっと顔貸せ。いや、カラダも、か」
耳元でそんな意味深な言葉を吐き出すこの男に、私はどうやら気に入られてしまったようなのだ――。