キスはワインセラーに隠れて
「その……さっきのは、衝動的にやっちまったっつーか。もちろん、その理由もわかってんだけど、今日はちょっと頭冷やして、また今度、ちゃんと言わせてくれねーかな」
「……うん、いいけど」
「ホント、今日はごめんな。オーナーも、迷惑かけてスイマセンでした。……じゃ、俺はこれで」
最後にペコッと頭を下げて、私たちの前から去っていく本田。
その姿が通路の向こうに見えなくなり、裏口の扉が閉まった音を確認すると、オーナーは私を見てため息交じりにこう言った。
「……恐れていたことが起きたな」
その目が私に“もうここで働くのは諦めろ”と言っているように見えてしまい、私は唇を噛んでうつむく。
さっき、オーナーが来てくれなければ、私は抵抗できなかった。
相手は同じくらいの体格の本田なのに、力じゃ全然敵わなくて……
「環ちゃんは、頑張ってるよ。その仕事ぶりは俺自身も見てたし、周りの奴らの評価も高い。でもさ……」
褒められているのに、全然嬉しくない。
それは、“でもさ……”のあとに続く言葉が、簡単に想像できてしまうからだ。
いつかはこんな日が来るってわかっていたけど、正直、まだ覚悟ができてないよ……
現実から逃れるように、ぎゅっと目を閉じる私。
だけどオーナーは、容赦なく言葉を継いだ。
「……そろそろ、潮時なんじゃないかな」
それは、私の心を苦しくさせるのと同時に、ほっとさせてくれる言葉でもあった。
このまま性別を偽って働くことに、心のどこかで限界を感じていたからだ。
もちろん、このレストランにずっと勤めていられたら幸せだったけど。
“もう嘘をつかなくていいんだ”――って思うと、足枷が外れたような気分だった。