キスはワインセラーに隠れて
「えー、庄野さんなんだけど。諸事情で、今月いっぱいでこのお店を辞めることになりました」
開店前の、厨房の片隅。
オーナーが連絡事項の最後にそう伝えると、スタッフたちは一瞬ざわついた。
……そりゃそうだよね。“諸事情”っていったい何だよって思うのが普通だ。
ちゃんと説明できないのがもどかしいけど、それでも精一杯の挨拶をしよう。
ウエイター仲間の列を抜け出した私は、オーナーの隣に並ぶと、皆の顔を見渡して言う。
「……急なことで、ごめんなさい。
このお店のシェフが作る料理はすごく美味しいし、一緒に働くスタッフは優しい人たちばかりだし、皆さんにはお世話になりっぱなしで、感謝の気持ちでいっぱいです。
色々事情があって辞めることになってしまったけど、今月いっぱいはいますので、それまでよろしくおねがいします」
ぺこりと頭を下げると、鼻の奥が少しツンとした。
やばいやばい……こんなことで泣くの、男っぽくないって。
そう自分に言い聞かせ、なんとか涙を堪えて顔を上げたときだった。
「オーナー、ちょっといいですか」
そんな声がしたかと思うと、こちらに向かって歩いてきた長身。
その姿を見るのは、昨日一緒に過ごしたあの時間以来だったから、ドキンと胸が鳴ってしまう。
「雄河。……なんだ?」
オーナーが不思議そうに尋ねると、私の方を一瞥した藤原さんは、信じられない一言を口にした。
「――コイツが辞めんなら、俺も辞めます」