キスはワインセラーに隠れて
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あのお店で働くことになった経緯を思い返していた私を、現実に引き戻したのは、小羽の弾んだ声。
「そうだ、環は職場にいい人いないの?」
「え」
唐突に投げかけられた質問に、飲んでいたコーヒーが気管に入って思わずむせそうになった。
それは“同僚と恋に落ちない”――という条件のせいと、もうひとつ。
あのお店で働き始めて二週間。
もちろんそういう人はいないけど……なぜか一人の男の顔が、頭の中にちらついたから。
そんな私の様子を特に気に留めなかったらしい小羽は、ほんのり頬を赤く染めながら言った。
「実は私、会社の先輩に付き合おうって言われて……」
ああ……そっか。そういうこと。
幸せそうな小羽の顔を見たら、“ヤツ”はなんとか頭の中から消え去ってくれて。
しばらく小羽をひやかして、これからその先輩とデートだという彼女と別れると、私はカフェの店先に止めてあったブルーの自転車に跨がった。
ペダルを踏み込み、緩やかな坂を下っていく。