光のもとでⅡ

Side 司 06話

「ツカサ、さっき左手しかマッサージしてないから、右手も!」
 俄然やる気の翠は、指輪を外しクリーム片手に待機している。
 そんな様がかわいくて、思わず笑みが漏れた。
 俺は心してマッサージを受けるべく、右手を差し出す。
 翠は先ほどと同じように丹念に指圧を加えていく。
 これが終わったら、俺もマッサージのお返しをしよう。
 食べたばかりだから背中や腰はできないけど、首や肩はできる。
 そもそも、翠にマッサージを施すのは久しぶりだ。
 相変わらず偏頭痛はあるみたいだが、過緊張からくる頭痛はないらしく、マッサージ要員として駆り出されることはなくなっていた。
 マッサージ……か。
 これ、ステップアップに使えるんじゃないか……?
 ふとそんな考えが頭よをよぎる。
 たぶん、キスや抱きしめることには慣れたと思う。ならば、そろそろ次を課してもいいころ……。
 翠のマッサージが終わると俺は席を立ち、洗面所でバスタオルを調達して戻ってきた。
 翠は「何?」といった顔をしている。
「お返しにマッサージ」
「え?」
「夕飯食べたばかりだから首と肩だけ」
 すると翠は、はじかれたように目を輝かせた。
「わー! 嬉しいっ。ツカサのマッサージ好き! 今すぐマッサージ師さんになれそうなくらい上手よね?」
 翠は進んで俺に背を向けた。
 相変わらず線の細い身体だな、と思いつつ、
「翠のハンドマッサージもいい線いってると思うけど?」
 言いながら肩にバスタオルをかけ、マッサージを始める。
 触った感じ、かなり凝っていた。
 でも、編み物をしていたことを考慮すれば、頷ける現状。
 俺は力加減に細心の注意を払い、マッサージを進めていった。
 翠は年内の予定や年明けの予定を話しながらにこにこしている。
「カウントダウンは佐野くんちの神社でするのよ! 私、去年は行かれなかったから楽しみで! 元一年B組は半数くらいしか集まらないのだけど、今のクラスの人たちも来るし、佐野くんの従兄妹の柊ちゃんや聖くんも来るって」
「へぇ……」
「ツカサも一緒にどう?」
 ほんのりと期待を帯びた目がこちらを見る。
「……でもそれ、ほぼほぼ二年の集まりだろ?」
「でも、ツカサが混ざってもあまり違和感はないと思うよ?」
「いや、あるだろ……」
「そうかな?」
「でも、考えとく」
 まるで気のない返事をしたけれど、行くことは確定したも同然。
 翠の人間関係をある程度把握しておきたいという感情が芽生えてしまったから。
 これから先、すべての関係性など把握することはできないだろう。でも、今はまだ――
 
 筋肉がだいぶほぐれ、気持ち的にもリラックスしている翠を前に、少しかまえる。
 マッサージの流れで自然と翠の身体に触れられると思ったけれど、急に胸を触ったらびっくりされる以上に拒絶されそうだ。
 拒絶されないためにはどう話を進めるべきか――
「ツカサ……?」
 様子をうかがうように名前を呼ばれた。
 会話内容を変えるにはちょうどいいタイミングかもしれない。
 この話をするのは紫苑祭以来だけど――
「……翠は性行為の何が怖い?」
 ダイレクトに尋ねると、翠は身を硬くした。
「身体に力入った。力抜いて」
 言いながら、肩を撫でて脱力を促す。
「ピルを飲んでいるなら妊娠を怖がる必要はないだろ? あとは気持ちの問題だけど……何か不安なことや怖いことがあるから先へ進めないんじゃないの?」
 翠はカチコチとした動作で不器用に頷く。
「その恐怖心は何に対して?」
 翠は首まで真っ赤に染め、
「……恥ずかしくて言えない……」
「教えてもらわないことには俺も待ってるのつらいんだけど……」
 本音を零すと、翠は黙り込んでしまった。
「翠、セックスってたぶんこういうのと変わらないと思う」
「え……?」
「相手の身体に触れて、気持ちいいと思うことをする」
 言いながら、繰り返し肩を撫でる。少しでも緊張が解けるようにと願いながら。
「翠が怖いものは何?」
 翠は何度かの深呼吸を繰り返すと、
「あのね、笑わないで聞いてね?」
「もとより、笑う話じゃないだろ?」
「……飛鳥ちゃんが――」
 は? 立花が何? なんでこの話題で立花?
「飛鳥ちゃんが、初めてのとき、すごく痛かったって……」
 言われて腑に落ちる。
「挿入のときか」
 でも、翠は婦人科にかかっているし、経膣プローブは経験あるんじゃないのか? ……もしかしたらないのだろうか。
 あったとしてもなかったとしても、
「そんな、入らないものを無理に入れるわけじゃないし、そこまで怖がらなくてもよくない?」
「だってっ、痛いって言ってるのに、海斗くん全然やめてくれなかったって――」
 そっちか……。
「海斗……どんな抱き方したんだよ」
 まさかよそ様のカップル事情が自分たちの進展を阻んでいるとは思いもしなかった。
 そうは言っても、
「海斗も初めてだっただろうし、好きな女を前に抑制がきかなくなるのは想像ができなくもないけど……」
 うっかり海斗をフォローするような言葉を口にしてしまう。
「ツカサもそうなる……?」
 怯えが声に表れていた。でも、
「……その状況になってみないとなんとも言えない。でも、挿入を楽にする方法はあると思うから、そのあたりは調べてみるし、自分本位なセックスにならないように気はつける」
 こう答えるのが精一杯。
 何せ経験がないのだから、誠実に答えようとしたところでこれがせいぜい。
 翠は何を思ったのかラグに視線を固定し、じっとしていた。
 驚かせないようにゆっくりと細い肩を胸に抱き、新たな提案を試みる。
「そろそろ待つのも限界だから、期間を設けない?」
「期間……?」
「いつまでに、って期限。もちろん、それまでには色々段階を用意するから」
 何か考えているのか、翠の頭は小さく右へ左へと動く。そして止まったかと思うと、
「ツカサの誕生日は……?」
 小さな声で尋ねてくる。
「それなら卒業式は?」
「えっ!? だってあと三ヶ月もないよっ!?」
「あと二ヶ月はあるんだけど」
「誕生日がいいっ」
「じゃ、それ採用で……」
 何がおかしかったのか、翠はほんの少し笑った。
 そのタイミングを逃さず、
「今日はステップアップその一」
 ゆっくりと翠の胸に触れる。と、翠はわかりやすく身を震わせた。
「痛い?」
 揉むのをやめて尋ねると、
「痛く、はない……けど……」
「けど?」
「……なんか、ものすごくエッチなことしてる気がして、恥ずかしい……」
 気づけば首筋が赤いどころか、胸元までピンク色に染まっていた。
 でもさ、
「そもそも、セックスの予行演習みたいなものだから、それなりにエッチなことになるんじゃないの?」
 それに、少しくらいエッチな気分になってもらわないとこっちも困るわけで……。
 胸を揉むことを再開し、今日何度となく釘付けになったうなじに唇を寄せる。
 ゆっくりとキスをする場所をずらしていくと、翠は漏れる吐息を押さえるように唇を手で覆った。
 声、我慢する必要ないんだけど……。それよりも――
「余計なことは考えないで。気持ちいいと思う感覚だけを追って」
 翠はピクリと震え、脱力したように俺へ体重を預けてくれた。
 そんなことをされれば押し倒したくもなるし、めちゃくちゃにしてやりたいとすら思う。でも、先の海斗たちの話を聞いてしまえばそれも叶わない。
 俺は翠を怖がらせたいわけじゃない。そんなふうに抱きたいわけじゃない。
 何度も何度も繰り返し、それだけを胸に刻む。
 翠の想いを踏みにじるような真似だけはしない――
 でも、顔は見たいかな。
「こっち向いて」
「っ無理――」
 無理じゃないし……。
 豊満な胸から手を離し、こちらを向くよう促す。
 翠はいやいやながらこちらを向いた。大きな目が思っていたより潤んでいて息を呑む。
「泣くほどいやだった?」
 翠は首を左右に振る。その割には涙目なんだけど……。
「や、じゃない……でも、いっぱいいっぱい」
 言って胸に顔を埋める。
 その様があまりにもかわいくて、思わず頭を抱きしめた。
 俺は深く息を吸い込み、
「よくがんばりました。もう胸は触らないから、いつもみたいにキスさせて」
 翠はコクリと頷いた。
 愛しい泣き顔を視界に認め、いつもより血色よく見える唇に、自身のそれを重ねる。
 不思議だな……。いつもと変わらない単なるキスなのに、ものすごく特別で、ものすごく大切な行為に思える。
 ただ愛おしくて、愛おしくてたまらない。
 俺は翠の唇がはれぼったくなるまで何度も何度も、口付けを繰り返した。

 名残惜しさを感じつつ翠から離れると、翠は時間を気にし、すぐにカップ類の片づけを始めた。
「翠、今日はいい」
「でも――」
 翠の手からカップを取り上げ、
「星、見たいって言ってなかった?」
 翠はぱっと目を輝かせる。
「ほら、コート着て」
 ふたり揃って屋上へ上がると、翠は満天の空を見上げてその場でくるくると回って見せた。
「ツカサツカサ、空がぐるぐる回ってるみたい!」
 回っているのは翠だけど……。
 くるくる回ってふらつく翠を捕まえると、翠を抱きしめたままに空を見上げた。
「今日はイブでもクリスマス当日でもないけれど、ふたりで過ごした初めてのクリスマスだったね」
「あぁ……これからは、予定が合う限りは毎年一緒だと思うけど」
 翠はにこりと笑ってこちらを向き、「大好き」と抱きついてきた。
 数ヶ月前までは、抱きしめられることすらいっぱいいっぱいと言っていた翠だが、今では自分から抱きついてくるまでになった。
 本当に少しずつ――それでも、前には進めている。
 一年前の今ごろにはこんな未来が待っているとは思いもしなかった。
 そうだ。焦りそうになったらあのころの自分へ立ち返ればいい。
 あのころ平行線だと思っていた二本の線は今、確かに交わろうとしている――
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