光のもとでⅡ
Side 慧 04話
機嫌が直りきらず無口な俺に、翠葉はしきりに声をかけてくれる。
それも、音楽とはまったく関係のない話題を。
「慧くんのおうち、とっても大きいのね? 表に噴水があってびっくりしちゃった。それと、玄関フロアがすごく広くて、二階に続く中央階段の立派さには思わずため息が漏れたほどよ? あぁ、あの艶やかな手すり、触ってみたかったな」
は? 手すりがなんだって?
意表をつかれて翠葉を見ると、翠葉は何を言ったふうでもなく話し続ける。
「それに、あれだけ広い会場があるのに、まだほかにもお部屋があるなんて……。どんな間取りなんだろう」
翠葉は壁にかけられた絵に目を留めると、
「すごく迫力のある絵……。私、絵画は詳しくないのだけど、廊下に飾られている絵も有名な画家さんのものだったりするの?」
「……まぁね。代々芸術家とのつながりは強い家だから」
「そうなのね……。あ、あのお花が飾られているコンソールテーブル、城井アンティークのものよ! マホガニーの天然木が上品な印象でしょう? このおうちの雰囲気によくあってるよね。この、引き出しの金具がお洒落で、何より猫脚がかわいいの」
翠葉は座り込んで「猫脚」を指差して見せる。
「猫脚はカブリオールレッグといって、動物の脚をモチーフにした脚のデザインのことなのだけど、フランスのダンス用語で『弾む』とか『飛び上がる』って意味なの。ちょっと音楽用語っぽいでしょう?」
そう言って立ち上がると、今度はフラワーアレンジメントに視線を移した。
「飾られているフラワーアレンジメントがクレッセントなのも、バランスが良くてすてき!」
こんな具合で西の部屋に着くまで延々と、アンティーク家具や飾られているフラワーアレンジメントの説明を聞いて移動した。
なんつーか、俺んちなのに、俺以上に詳しく説明してくれる何か……。
普段何気なく目にしている家具のひとつひとつをこんなにじっくり見て回ったのは初めてだったし、嬉しそうに夢中になって話している翠葉を見ていたら、ささくれだった心は平穏を取り戻していた。
「すんげー詳しいのな?」
「え?」
「え?」じゃないし……。
「家具や花のこと」
「あ、好きだからかな? おじいちゃんちがアンティーク家具屋さんだから、小さいころからすてきな家具を見る機会はたくさんあったの。家具のデザイン画や専門書は絵本代わりだったし、おばあちゃんの趣味がフラワーアレンジメントだから、アレンジメントの種類はなんとなく覚えてて……って、ただそれだけよ?」
その言葉に、「好き」ってすごいんだな、なんてザックリとした感想を抱いた。
部屋に着き両開きのドアを開くと、翠葉は吸い込まれるように部屋へ入っていった。
そして、ベーゼンドルファーから数メートル離れた場所で足を止め、じっとピアノを見つめている。
「翠葉?」
声をかけ翠葉の顔を覗き込むと、唇が少し震えた気がした。
「弾かないの?」
「あっ、えと……なんかちょっと感慨深いものがあって……。触っても、いいの?」
「もちろん」
翠葉の背にそっと手を添え、ピアノの前へと促す。
翠葉が動いた瞬間、ほのかにいい香りが漂った。
香水か何か……? なんの香りかわからないけど、すんげぇいい香り……。
その香りをもっと感じたくて、翠葉のあとを追う。
鍵盤の前に立った翠葉は、「ラ」の鍵盤を人差し指で沈めた。何度か同じ音を鳴らし、何かおいしいものでも食べたかのような笑顔になる。
これだけ喜んでもらえたら、ベーゼンドルファーも本望だろう。
「この音、ずっと忘れられなくて……」
そう言って笑うと、目に涙を滲ませた。
ただ、いつもより目が潤んで見えるだけ。なのに俺は、その表情に心を奪われていた。
人の目がこんなにもきれいに見えたことはないと思う。
なんか、心臓の鼓動が妙に慌しいんだけど、これはどうにかならないものか……。
はっと我に返って自分のハンカチを差し出すと、翠葉は「ごめん、ありがとう」とハンカチを受け取ってくれた。
涙を拭くと、それまでの空気を一掃するように、テンション高めに話し出す。
「このアンティークっぽいつくりも大好き! これ、リミッテッドエディションモデルよね?」
翠葉は嬉しそうに何度も「ラ」の音を鳴らす。
「そうだけど……そんな、『ラ』ばっかり弾いてないで曲を弾けばいいだろ?」
気づけば笑みが漏れる程度には機嫌が回復していて、翠葉に椅子へ座るよう促していた。
翠葉は椅子に座ると、両手を組んでお祈りするみたいなポーズになった。目を閉じているから、余計にそんなふうに思う。
あ、れ……? 指になんか光るものが……。
指につけられるアクセサリーといったら指輪――えっ、指輪っ!? でも、「ラ」を弾いていたときには気づかなかった。
……つまり、右手じゃなくて左手? えっ、左手っ!?
左手の何指っ!?
食い入るように見ていると、目を開けた翠葉は左手薬指から指輪を外し、弓弦がさっき弾いた曲、ショパンのエオリアンハープを弾き始めた。
左手薬指左手薬指左手薬指……えーとえーとえーと……どういうことですか?
今まで翠葉の指に指輪がはまっていたことはないし、普通彼氏がいたとしても右手の薬指じゃね? なんで左手薬指?
いやいやいや、今は演奏を聴け! せっかく弾いてくれてるのに失礼だろっ!
聴くことに専念すると、応接室で聴いたときとはまったく違うタッチの演奏であることに気づく。
あぁ、あの変な癖なおったんだな……。それに、演奏の勘を取り戻している気がする。
コンクールのときに聞いた極彩色の音色が部屋いっぱいに鳴り響いていた。
弓弦の緻密さを感じる演奏とは違う。ハープのように柔らかな音色で一曲を弾ききった。
これはやっぱり……。
「受験曲?」
「うん。まだどれにするか悩んでいるのだけど……」
「それって、さっき弓弦が弾いた曲で?」
「え? あ、よくわかったね? そうなの」
「弓弦の演奏聞いてて思ったんだけど、曲の難易度に開きがありませんかね……」
十の八とエオリアンハープは比較的易しい曲だが、十の一は難易度の高い曲に振り分けられる。
しかし、そのあたりが無頓着らしい翠葉ははきょとんとした顔で、
「そう……なの?」
さらにははにかんだ表情で、
「ショパンのエチュードは昔から好きで、中学のときにいくつか弾いたことがあるの。受験へ向けて新しい曲を弾くという選択肢もあったのだけど、練習していなかった期間が長いから、先生と相談して弾いたことのあるものの完成度を上げることにしたの」
実に気負いなく話してくれる。
でも納得……。
学祭のときにどんなふうに教本を進めてきたのかあらかた聞いてはいたけれど、そうですかそうですか……。
「ショパンが好きでショパンばかり弾いてきた」の中身がエチュードかよ、このやろう……。
いくつか弾いたことがあるって言うけど、何を弾いてきたんだろう。
十の一が弾けるのなら、それなりの曲数をこなしていると思うべきか。
好奇心をこちょこちょくすぐられていると、
「でも、受験で弾くなら手堅くいくべきだよね……。そう考えるとエオリアンハープか十の八あたりかなぁ……。弾きやすさで言うなら黒鍵も捨てがたいし……」
あぁ、翠葉が弾いたら弓弦とはまったく違う世界を見せてもらえそうだ。黒鍵や蝶々を弾かせても面白いだろうな。くるくる回る感じの表情を、より豊かに表現してくれそうで……。
でも、難曲と言われる十の一を聞きたくもある。
リクエストしたら弾いてくれっかな?
「なぁなぁ翠葉、十の一聴きたい」
おねだりすると翠葉は、
「この曲は指のトレーニングをしている状態だから、人に聴かせられるレベルじゃないよ?」
言いながらも、すぐに鍵盤へ向き直った。
その演奏に頭を抱えたくなる。
ぅおーい、先日の応接室でのアレはなんだったんだ……。
エオリアンハープと比べたら弾き込みが甘いけど、あと二、三ヶ月も練習すれば十分受験で勝負できる域だろ。
去年の夏にレッスンを開始して、その後二ヶ月近くレッスンを休んでいたにも関わらず、ショパンのエチュードをさらっと弾けるってどうなの?
さらには、あの弓弦にしごきにしごかれて精度上げる、ね……。やっべぇ、仕上がりが超楽しみ。
うずうずしながら数分の演奏を聴き終えると、
「タッチの気になる音が多々ありますね。パーツ練習を徹底してください。それから、もっとです。もっと手首を柔らかく使わなくては弾きこなせませんよ」
カートを押して入ってきた弓弦は手厳しく指摘する。
翠葉は、「ですよね」といった感じで恥ずかしそうに鍵盤から手を引っ込めた。
弓弦はショパン国際ピアノコンクールで入賞しただけのことはあって、ショパンに関してはえらく厳しいのだ。
かつては俺も見てもらっていたことがあり、その厳しさは身にしみてわかっている。
でも、若いながらも指導は的確で、今俺がショパンのエチュードは割と得意と言えるのは、ひとえに弓弦のおかげである。
「その曲でトライすることに決めたんですか?」
「いえ。慧くんにリクエストされて弾いただけで、受験曲はまだ悩んでいます」
「そうでしたか。候補に挙がっている曲のどれであっても御園生さんの持ち味は生かせると思います。なので、年明けのレッスンでどの曲にするか確定しましょう」
「はい」
来年高三でAO入試に間に合わせるなら夏前には仕上がってないといけない。でもこの調子なら、エチュードは春ごろには完成するんじゃないだろうか。残りはバッハと自由曲だけど、もしかしたら、翠葉にとってはそっちのほうがネックなのかもしれない――と思うことにしよう。
スケジュール管理の鬼の弓弦がついているのだから、間に合わないことはないと思うけど……。
そこまで考えてはたと我に返る。
それ以前に、翠葉の第一志望がうちになるかどうかが大問題だった――
それも、音楽とはまったく関係のない話題を。
「慧くんのおうち、とっても大きいのね? 表に噴水があってびっくりしちゃった。それと、玄関フロアがすごく広くて、二階に続く中央階段の立派さには思わずため息が漏れたほどよ? あぁ、あの艶やかな手すり、触ってみたかったな」
は? 手すりがなんだって?
意表をつかれて翠葉を見ると、翠葉は何を言ったふうでもなく話し続ける。
「それに、あれだけ広い会場があるのに、まだほかにもお部屋があるなんて……。どんな間取りなんだろう」
翠葉は壁にかけられた絵に目を留めると、
「すごく迫力のある絵……。私、絵画は詳しくないのだけど、廊下に飾られている絵も有名な画家さんのものだったりするの?」
「……まぁね。代々芸術家とのつながりは強い家だから」
「そうなのね……。あ、あのお花が飾られているコンソールテーブル、城井アンティークのものよ! マホガニーの天然木が上品な印象でしょう? このおうちの雰囲気によくあってるよね。この、引き出しの金具がお洒落で、何より猫脚がかわいいの」
翠葉は座り込んで「猫脚」を指差して見せる。
「猫脚はカブリオールレッグといって、動物の脚をモチーフにした脚のデザインのことなのだけど、フランスのダンス用語で『弾む』とか『飛び上がる』って意味なの。ちょっと音楽用語っぽいでしょう?」
そう言って立ち上がると、今度はフラワーアレンジメントに視線を移した。
「飾られているフラワーアレンジメントがクレッセントなのも、バランスが良くてすてき!」
こんな具合で西の部屋に着くまで延々と、アンティーク家具や飾られているフラワーアレンジメントの説明を聞いて移動した。
なんつーか、俺んちなのに、俺以上に詳しく説明してくれる何か……。
普段何気なく目にしている家具のひとつひとつをこんなにじっくり見て回ったのは初めてだったし、嬉しそうに夢中になって話している翠葉を見ていたら、ささくれだった心は平穏を取り戻していた。
「すんげー詳しいのな?」
「え?」
「え?」じゃないし……。
「家具や花のこと」
「あ、好きだからかな? おじいちゃんちがアンティーク家具屋さんだから、小さいころからすてきな家具を見る機会はたくさんあったの。家具のデザイン画や専門書は絵本代わりだったし、おばあちゃんの趣味がフラワーアレンジメントだから、アレンジメントの種類はなんとなく覚えてて……って、ただそれだけよ?」
その言葉に、「好き」ってすごいんだな、なんてザックリとした感想を抱いた。
部屋に着き両開きのドアを開くと、翠葉は吸い込まれるように部屋へ入っていった。
そして、ベーゼンドルファーから数メートル離れた場所で足を止め、じっとピアノを見つめている。
「翠葉?」
声をかけ翠葉の顔を覗き込むと、唇が少し震えた気がした。
「弾かないの?」
「あっ、えと……なんかちょっと感慨深いものがあって……。触っても、いいの?」
「もちろん」
翠葉の背にそっと手を添え、ピアノの前へと促す。
翠葉が動いた瞬間、ほのかにいい香りが漂った。
香水か何か……? なんの香りかわからないけど、すんげぇいい香り……。
その香りをもっと感じたくて、翠葉のあとを追う。
鍵盤の前に立った翠葉は、「ラ」の鍵盤を人差し指で沈めた。何度か同じ音を鳴らし、何かおいしいものでも食べたかのような笑顔になる。
これだけ喜んでもらえたら、ベーゼンドルファーも本望だろう。
「この音、ずっと忘れられなくて……」
そう言って笑うと、目に涙を滲ませた。
ただ、いつもより目が潤んで見えるだけ。なのに俺は、その表情に心を奪われていた。
人の目がこんなにもきれいに見えたことはないと思う。
なんか、心臓の鼓動が妙に慌しいんだけど、これはどうにかならないものか……。
はっと我に返って自分のハンカチを差し出すと、翠葉は「ごめん、ありがとう」とハンカチを受け取ってくれた。
涙を拭くと、それまでの空気を一掃するように、テンション高めに話し出す。
「このアンティークっぽいつくりも大好き! これ、リミッテッドエディションモデルよね?」
翠葉は嬉しそうに何度も「ラ」の音を鳴らす。
「そうだけど……そんな、『ラ』ばっかり弾いてないで曲を弾けばいいだろ?」
気づけば笑みが漏れる程度には機嫌が回復していて、翠葉に椅子へ座るよう促していた。
翠葉は椅子に座ると、両手を組んでお祈りするみたいなポーズになった。目を閉じているから、余計にそんなふうに思う。
あ、れ……? 指になんか光るものが……。
指につけられるアクセサリーといったら指輪――えっ、指輪っ!? でも、「ラ」を弾いていたときには気づかなかった。
……つまり、右手じゃなくて左手? えっ、左手っ!?
左手の何指っ!?
食い入るように見ていると、目を開けた翠葉は左手薬指から指輪を外し、弓弦がさっき弾いた曲、ショパンのエオリアンハープを弾き始めた。
左手薬指左手薬指左手薬指……えーとえーとえーと……どういうことですか?
今まで翠葉の指に指輪がはまっていたことはないし、普通彼氏がいたとしても右手の薬指じゃね? なんで左手薬指?
いやいやいや、今は演奏を聴け! せっかく弾いてくれてるのに失礼だろっ!
聴くことに専念すると、応接室で聴いたときとはまったく違うタッチの演奏であることに気づく。
あぁ、あの変な癖なおったんだな……。それに、演奏の勘を取り戻している気がする。
コンクールのときに聞いた極彩色の音色が部屋いっぱいに鳴り響いていた。
弓弦の緻密さを感じる演奏とは違う。ハープのように柔らかな音色で一曲を弾ききった。
これはやっぱり……。
「受験曲?」
「うん。まだどれにするか悩んでいるのだけど……」
「それって、さっき弓弦が弾いた曲で?」
「え? あ、よくわかったね? そうなの」
「弓弦の演奏聞いてて思ったんだけど、曲の難易度に開きがありませんかね……」
十の八とエオリアンハープは比較的易しい曲だが、十の一は難易度の高い曲に振り分けられる。
しかし、そのあたりが無頓着らしい翠葉ははきょとんとした顔で、
「そう……なの?」
さらにははにかんだ表情で、
「ショパンのエチュードは昔から好きで、中学のときにいくつか弾いたことがあるの。受験へ向けて新しい曲を弾くという選択肢もあったのだけど、練習していなかった期間が長いから、先生と相談して弾いたことのあるものの完成度を上げることにしたの」
実に気負いなく話してくれる。
でも納得……。
学祭のときにどんなふうに教本を進めてきたのかあらかた聞いてはいたけれど、そうですかそうですか……。
「ショパンが好きでショパンばかり弾いてきた」の中身がエチュードかよ、このやろう……。
いくつか弾いたことがあるって言うけど、何を弾いてきたんだろう。
十の一が弾けるのなら、それなりの曲数をこなしていると思うべきか。
好奇心をこちょこちょくすぐられていると、
「でも、受験で弾くなら手堅くいくべきだよね……。そう考えるとエオリアンハープか十の八あたりかなぁ……。弾きやすさで言うなら黒鍵も捨てがたいし……」
あぁ、翠葉が弾いたら弓弦とはまったく違う世界を見せてもらえそうだ。黒鍵や蝶々を弾かせても面白いだろうな。くるくる回る感じの表情を、より豊かに表現してくれそうで……。
でも、難曲と言われる十の一を聞きたくもある。
リクエストしたら弾いてくれっかな?
「なぁなぁ翠葉、十の一聴きたい」
おねだりすると翠葉は、
「この曲は指のトレーニングをしている状態だから、人に聴かせられるレベルじゃないよ?」
言いながらも、すぐに鍵盤へ向き直った。
その演奏に頭を抱えたくなる。
ぅおーい、先日の応接室でのアレはなんだったんだ……。
エオリアンハープと比べたら弾き込みが甘いけど、あと二、三ヶ月も練習すれば十分受験で勝負できる域だろ。
去年の夏にレッスンを開始して、その後二ヶ月近くレッスンを休んでいたにも関わらず、ショパンのエチュードをさらっと弾けるってどうなの?
さらには、あの弓弦にしごきにしごかれて精度上げる、ね……。やっべぇ、仕上がりが超楽しみ。
うずうずしながら数分の演奏を聴き終えると、
「タッチの気になる音が多々ありますね。パーツ練習を徹底してください。それから、もっとです。もっと手首を柔らかく使わなくては弾きこなせませんよ」
カートを押して入ってきた弓弦は手厳しく指摘する。
翠葉は、「ですよね」といった感じで恥ずかしそうに鍵盤から手を引っ込めた。
弓弦はショパン国際ピアノコンクールで入賞しただけのことはあって、ショパンに関してはえらく厳しいのだ。
かつては俺も見てもらっていたことがあり、その厳しさは身にしみてわかっている。
でも、若いながらも指導は的確で、今俺がショパンのエチュードは割と得意と言えるのは、ひとえに弓弦のおかげである。
「その曲でトライすることに決めたんですか?」
「いえ。慧くんにリクエストされて弾いただけで、受験曲はまだ悩んでいます」
「そうでしたか。候補に挙がっている曲のどれであっても御園生さんの持ち味は生かせると思います。なので、年明けのレッスンでどの曲にするか確定しましょう」
「はい」
来年高三でAO入試に間に合わせるなら夏前には仕上がってないといけない。でもこの調子なら、エチュードは春ごろには完成するんじゃないだろうか。残りはバッハと自由曲だけど、もしかしたら、翠葉にとってはそっちのほうがネックなのかもしれない――と思うことにしよう。
スケジュール管理の鬼の弓弦がついているのだから、間に合わないことはないと思うけど……。
そこまで考えてはたと我に返る。
それ以前に、翠葉の第一志望がうちになるかどうかが大問題だった――