光のもとでⅡ

Side 翠葉 02話

 ツカサが来ると、唯兄が私の部屋へ通してくれた。そしてツカサは、ローテーブルに並べられたマフラーの前で逡巡している。
「司っちのマフラーどれだと思う?」
 と言った唯兄の台詞に悩んでいるのだ。
「これだよ、これっ!」
 唯兄が自分のマフラーをツカサにぐるぐると巻き始めた。ツカサは面食らっており、巻かれたあとは無表情でじとりと私に視線をよこす。
 これでは色がいやでその顔なのか、唯兄の面白がっている様を不快に思ったのかがわからない。でも、藤色を纏ったツカサはとてもきれいだった。
 やっぱり似合う……。
 一瞬で藤の木の下に立つツカサを思い出す。
 ……今年も、藤の花を一緒に見られたらいいな。
 あまりにもツカサが不機嫌丸出しなので、唯兄が早々に根を上げた。
「嘘うそ、ツカサっちのはそっちの青いやつ。これは俺の」
 嫌悪感を露にした視線は解除され、今度は呆れたような顔で私を見る。即ち、「何がしたかったんだ?」かな。
「本当はツカサにも柔らかい色味のマフラーを編みたかったのだけど、いやな顔をされる気がしてやめたっていう話を唯兄にしたの。そしたら、唯兄がこのマフラーで反応を見ようって……」
 全部話すことはなかったかもしれない。でも、この際話してしまったほうが収穫を得られる気がした。
「ツカサはそういう色、好き? 嫌い?」
「……持ってはいない」
「編んだら使ってくれる?」
「……使わなくはない」
 うーん……これはどう解釈するべきだろうか。
「あのね、すごく似合うと思う。ツカサは色が白いから……。イメージ的にはモノトーンの印象だけど、でも、似合うと思うの。差し色になると思う」
「……段階は踏ませてほしい」
 その言葉に私は笑顔になる。
「うんっ。いきなりパステルピンクとかは渡さないからっ」
 答えると、唯兄がお腹を抱えて笑いだした。
「司っちにパステルピンクっ! ひーーー腹痛いっ! リィ、楽しいから来年の毛糸選び、俺も連れてってね」
「それは却下。翠、来年の毛糸選びは俺が一緒に行くから」
 そんな会話のもと、この話題は収束した。

 ツカサが着ていたコートやマフラーをハンガーにかけていると、出かける支度をした唯兄が部屋に顔を出す。
「唯兄、お出かけ……?」
「うん、ちょっとね。ホテルに用がある。あと、帰りに夕飯の買出ししてくるわ。六時くらいまでには帰る」
 唯兄はツカサを見て、
「司っち、今日の夕飯はうちで食べていきなよ。大したものは作んないけど」
「……ごちそうになります」
「ってことで、ごゆっくり。しばらくはゲストルームにふたりきりだよ」
 ニヒヒ、と笑って唯兄は玄関を出ていった。
 ツカサと部屋にふたりきりになるのなんて珍しいことじゃない。でも、あえて言葉にされると少しドキドキする。
 なんだろう、変なの……。
 ちら、とツカサを見たら、ツカサの手が私の額に伸びてきた。
「熱は下がったみたいだな」
「ん……。まだ三十七度あたりをうろちょろしてるけれど、ほとんど治りかけ」
「無理はしないように」
 ツカサはラグに腰を下ろすとかばんを手繰り寄せ、
「これ、言われてたココア」
 と、金色の缶を取り出した。
 私はココアを受け取りお金を払うと、キッチンへココアを淹れに行った。
 唯兄に言われたとおり、きちんとコーヒーも淹れる。でも、一口くらいココアを飲んでほしい。
 マフラーをしたときの表情も見たいと思ったけれど、どちらかというとココアを口にしたほうが楽しみ。
 ツカサがどの程度甘いものが苦手なのかはよく知らないのだ。
「お砂糖、ティースプーンに一杯だったら大丈夫かな……」
 ドキドキしながらミルクパンで牛乳をあたためココアを混ぜる。そして、カップにお砂糖を一匙入れ、あたためたココアをゆっくりと注いだ。
 トレイに載せて部屋へ戻ると、カップを見たツカサの表情が険しいものへと変化する。
「バレンタインだから、せめてココア……。お砂糖はティースプーンに一杯しか入れてないよ」
「……翠が飲みたいんじゃなかったの?」
「どちらかというと、ツカサに出したかったの。お菓子はまだ作れないけれど、ココアくらいなら淹れられると思って」
 ツカサはじっとカップを見て動きを止めたまま。
「ごめん、やっぱりココアはいやだよね? コーヒーも淹れてあるの。今、淹れなおしてくる」
 部屋を出ようとしたら腕を掴まれた。
「飲んだら何か褒美くらいもらえるんだろうな?」
「え……?」
「仮にも苦手な飲み物を飲むんだ。何もなければ割に合わない」
「……困ったな。マフラーのほかには何もないし……。コーヒーとハーブティーくらいしか出せないよ?」
「……キス」
「え……?」
「飲んだら、キスして」
 突然の要求に、今度は私が固まる番だった。
「翠にキスをしてもらえるなら飲む」
「で、でもっ、風邪うつっちゃう」
「治りかけの風邪をもらうほど柔じゃない」
 ツカサはココアが入ったカップに口をつけた。一口飲むと視線は私に戻される。
「褒美は?」
 掴まれていた腕をぐい、と引き寄せられ、ツカサの近くに膝をつく。
「褒美」
 真っ直ぐに見てくる目に懇願されているような気になる。
 キスなら今までに何度もした。でも、私からキスをしたことは一度しかない。
 あのときは必死だったし勢いで口付けられたけど、今は状況が違うだけに、感じたことのない緊張に襲われる。
 いやなわけじゃない。ただ、恥ずかしいのと緊張するのと、なんだろう……。
「風邪、うつっても……知らないよ?」
「かまわない」
 見慣れているツカサの無表情にすらドキドキする。
 ヒーターの音がやけに大きく感じた。無機質な音が鳴る中、
「……目、閉じてくれないといや」
 ツカサはすぐに目を閉じた。
 漆黒の髪に漆黒の睫。形のいい薄い唇に釘付けになる。
 でも、唇にキスをする勇気は持てなくて、頬に唇を寄せた。
「……すごい騙された気分なんだけど」
 ツカサに文句を言われて顔が熱くなる。
「だって、なんだか勇気がいるんだものっ……」
 すると、ちゅ、とツカサにキスをされた。唇に。
「……そんなに緊張すること?」
 そんなことを言われても、困る……。
 キスをするのとされるのでは、状況も気持ちもひどく異なるのだから。
「これを飲み終えるころには慣れるんじゃない?」
「えっ!?」
 一回じゃないのっ!?
 頬にした一度で許されると思っていたのに、ツカサは二口目を口にして、再度私に催促の視線を向けてきた。
「本当にっ!?」
 ツカサはコクリと頷くのみ。
 ここまで強要されるとどうしても唇にはできない。だって、余計に意識してしまうもの……。
 そんなわけで、私は額にキスをしたりこめかみにキスをしたり、決して唇には触れなかった。
 再度熱が上がってきたのではないか、と思うくらいに顔が熱い。顔が、というよりは全身が汗ばみそうなくらいに熱かった。
「これ、最後の一口なんだけど……」
 じとりと見られて、「う……」と言葉に詰まる。
「イベントに乗じたい割に乗り切れてないんじゃない?」
 そこをつかれるとちょっと痛い。
 今日がバレンタインでなければココアをツカサに飲ませようなどとは思わなかっただろう。現況はすべて自分が招いたことなのだ。
「……したら、嬉しい?」
「何?」
「……唇にしたら、嬉しい?」
「……じゃなかったら褒美になんて指定しないんだけど」
 ……意地悪だ。ツカサは意地悪だ……。でも、好き――すごく好き。
 ツカサは私を見ながら最後の一口を口にした。そして、目を瞑る。
 私は手にぎゅっと力を入れて、ツカサの唇に自分のそれを重ねた。
 頬に触れたときよりも、額に触れたときよりも、瞼に触れたときよりもそっと――
 すると、ツカサの手が背に回され、いつものようにキスの主導権がツカサに渡る。
 いつもなら、コーヒーの香りがするキスだけど、今日はほろ苦いココアの香り。
 ツカサが甘い香りを纏っているのは想像ができないけれど、ほろ苦いココアの香りならしっくりくる。
 唇にノックするような刺激があり、なんだろうと思っていたら、それまで以上に深く口付けられた。
 よりココアの香りと味を感じ、私はとろんとした気持ちでキスを受け続けた。
 唇が離れて目を開ける。
「……コーヒー、飲みたい?」
 訊くと、ツカサはクスリと笑って「できれば」と答えた。

 自分のココアとツカサのコーヒーを電子レンジであたためなおして部屋に戻ってくると、ツカサはお菓子の本を眺めていた。
「何を作る予定だったの?」
 訊かれて、作ろうと思っていたお菓子のページを開く。
「本当は違うものを作ろうと思ったのだけど、あまりにもツカサがイベントには乗じてくれそうにないから、バレンタインはコーヒークランブルケーキとフロランタンだけにする。バレンタイン以外のときには焼かない。そしたら、少しはバレンタインが特別なものに思える?」
 ツカサは「そうだな」と表情を和らげて笑った。
「ほかには何が食べたい……? ふたつ以外のものだったら何もイベントがなくても作ってあげる」
「甘くなければなんでも」
「それじゃつまらない」
 ツカサは厄介なものを手に取ってしまった、といった具合だったけれど、一緒にお菓子の本をずっと見てくれていた。
 それはいつしか料理の本に及び、この料理が食べたいとか、この料理はこんな味がするだろうとか、そんな話ばかり。
 そこへ唯兄からメールが入った。


件名 :いちゃいちゃしてる?
本文 :そろそろ帰るからそのお知らせだよー!


 メールを見て目が点になる。
 いちゃいちゃって――
 両手で携帯を持っていると、ツカサがディスプレイを覗き込んだ。
 文面に目を通すと、「それなら」と私に向き直り、
「唯さんが帰ってくる前に最後のキス」
 けれどもツカサが動く素振りはなくて――
「え……?」
「今日がバレンタインなら?」
 言われてキスをねだられていることに気づく。
「……もぅ」
 なんだか地雷を踏んでしまった気分だ。
 でも、キスをするのはいやじゃない。恥ずかしいけど、好き。
 求められているのは唇へのキス。私はツカサの肩に手を添え、そっと唇を重ねた。
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