光のもとでⅡ
好きな人の卒業式 Side 翠葉 03話
卒業生を見送り終わった一、二年メンバーが揃うと、紙袋に用意していた色紙と花束を三年生ひとりひとりに手渡していく。
みんなが一言ずつ挨拶を交わしている中、私はひとりカメラのセッティングをしていた。
とてもじゃないけど、挨拶をして目に涙が滲んだ状態ではカメラのセッティングができそうにはなかったから。
黙々と作業をしていると、一通り挨拶が終わったらしい飛翔くんがやってきた。
「ほら、センパイも行ってこいよ」
その言葉に耳を疑う。
今、「先輩」って言った……?
中腰になっていた私は、高く遠い位置にある顔を凝視する。
「んだよ……」
飛翔くんは小さく零したけど、そんなのこっちが訊きたい。
今まで「先輩」などと呼ばれたことはなく、いつだって「おい」とか「あんた」とか「おまえ」だったのだから。
「なんで急に『先輩』……?」
飛翔くんは非常に面倒くさいものを見る目で舌打ちをした。
「そこ、わざわざ指摘してくんなよ、アホっ」
「だってっ、初めて言われたよっ!?」
「食いつくなバカっ」
「バカじゃないものっ」
「だー……ほら、行ってこいっつーの」
腕を掴まれ立たされると、ぶっきらぼうに背中を押されて前へ出た。すると、まるで私を待っていたかのように、三年生がそこへ並んでいて――
「翠葉、二年間ありがと!」
嵐子先輩にぎゅっと抱きしめられ、私は同じように抱きしめ返した。
「こちらこそ、とてもお世話になりました。本当に、お世話になりっぱなしで何も返せてないのにもう卒業なんて――」
言葉に詰まれば涙が出てくる。
「あー……また泣いちゃったよ」
優太先輩の言葉に、「ごめんなさい」と思わず謝る。
でも、謝っても何しても、涙が止まることはない。
久先輩や茜先輩が卒業するときにだって泣きはしたけど、今日ほどひどくはなかった。
やっぱり、一年と二年の歳月の差なのだろうか。
嵐子先輩から離れて手ぬぐいで涙を拭う。でも、やっぱり涙はなかなか止まってはくれなかった。
「翠葉ちゃん、俺は会計でかなりお世話になった口だよ?」
「そんなことっ――」
「あるでしょ? 一昨年の紅葉祭も、去年の紫苑祭も、俺と司は翠葉ちゃんがいてくれたから、会計以外の仕事を引き受けることができたんだ。翠葉ちゃんはあと一年大変だと思うけど、飛翔をこき使って乗り切ってね!」
「っ……はいっ!」
次に私の目の前に立ったのは朝陽先輩だった。
「二年間ありがとう」
「こちらこそ、たくさんお世話になりました」
「うん。でも、これからもよろしくね?」
「え……?」
「俺たち、嵐子ちゃん以外はみんなここの大学へ持ち上がりだし、俺に関して言えば、フェンシング部の後輩指導に招かれてる。だから、これからも校内で会うことがあると思う。……ね? 翠葉ちゃんが高校を卒業するまでは、会う機会が結構あると思わない?」
朝陽先輩らしい言い回しに笑みが漏れる。
「校内で会えるの、楽しみにしています!」
「うん。じゃ、最後――」
朝陽先輩に引き寄せられる形でツカサが目の前に立った。ただそれだけ――なのに、目が勝手に潤みだす。自分の意思でどうこうできないほどに。
「なんでそんなに泣く必要がある? たかだか高等部を卒業するだけだろ?」
確かに高校を卒業するだけだ。でも、もうお昼休みに一緒にお弁当を食べることはできないし、今よりも会う回数や時間は減ってしまうだろう。それが「たかだか」なの……? 寂しいと思っているのは私だけなの……?
そう思うと、今度は悲しさから涙が溢れてくる。
すると、ツカサの手が伸びてきて、頬を流れる涙を親指で拭われた。
「学校で会えないなら学校外で会えばいい。それだけのことだろ?」
当たり前のことのように言ってくれることが嬉しい。でも、制服を着て、校内で会えるのは今日が最後なのだ。
「何かあるなら言葉にして欲しいんだけど」
ツカサらしい催促に答えようとしたとき、嵐子先輩がツカサをどついた。
「わかってないなぁ……。学校で、しかも制服姿で会えるのは今日が最後なんだよ? そこんとこ理解してあげなよ」
「そうそう。だからこそ毎年、卒業式のあとは校内で記念撮影ができるようにって、午後三時まではすべての教室が開放されてる」
優太先輩の追加情報に、そういう慣わしがあることは知っているけど、校内で撮影したい人の思いまでは理解できない。ツカサはそんな顔をしていた。
「翠もそれ、やりたいの?」
くだらない、と思われるだろうか。
でも、校内にいるツカサを写真に撮りたいというか、目に焼き付けたい思いはあってコクリと頷く。と、
「わかった。じゃ、あとで校内散歩ね」
意外なほどあっさりと請合ってくれた。
「本当に……? 写真、撮らせてくれるの?」
「翠の写真も撮らせてくれるなら?」
ちょっと意地悪く、口端を上げて言われる。
「司さぁ、今日くらい交換条件なしにしてやれよ」
海斗くんの言葉をツカサはスルーする。
やっぱり、交換条件なしには撮らせてもらえないよねぇ……と若干落ち込んでいると、
「ほらほら、話もまとまったところで、とりあえずは記念撮影しませんかね?」
サザナミくんに促され、私は最後の設定を済ませた。
「誰かひとりでも笑ったら、シャッターが落ちるようになっています」
その言葉に、みんなが三年生四人を囲むように並び始める。
「翠葉はここ」
海斗くんに言われてツカサの隣に立つと、
「翠」
呼ばれてツカサを見上げる。と、見覚えのある縁が紺の青いハンカチで涙を拭われた。
一連のやり取りを見て笑われたのか、シャッターが次々と切られる。
「ほら、翠葉も前向いて!」
嵐子先輩に言われて、私は泣き顔のままカメラの方を向いた。
生徒会メンバー揃っての記念撮影のあとは、各々撮りたいメンバーと数人での撮影会になり、私も何枚か一緒に写ったけれど、どんなに涙を拭ったところで泣き顔なことに変わりはなく、みんながキラキラの笑顔で写る中、私ひとりは散々な顔で写っていた。
そんな時間は十分もあれば終わってしまい、十二時を前に解散することになった。
周りにいた卒業生や在校生たちもかなりばらけてきている。
高校最後の学食を食べに食堂へ行く人たちもいれば、開放されている校内をめぐり記念撮影する姿も見られる。
その様子を眺めていると、
「校内って、どこに行きたいの?」
ツカサに訊かれて困ってしまう。
とくにどこ、という希望はなく、学校にいるツカサならなんでもよくて……。
返答できずにいると、
「ひとまず一、二年棟から回るか」
その提案に、私は飛びつく勢いで賛成した。
昇降口を入り、一階から順番に回っていく。
けれど一、二年棟の一階には保健室と教科準備室があるくらいなので、私たち以外には誰もいなかった。
保健室の前で立ち止まったツカサは、
「覚えてる? 翠が高校に入学して数日で保健室に運び込まれたの」
「……覚えてる。その節はお世話になりました」
ペコリと頭を下げると、ツカサに軽く小突かれる。
「これからは今まで以上に気をつけてくれないと困る。いくら助けたくても、俺はもう同じ校内にはいない」
その言葉に、せっかくおさまっていた涙が再度溢れ出す。
「ツカサ、それ禁止……。いないって言われると、寂しくて涙が出てくる……」
「そうはいっても事実だし、どれだけ念を押しても押したりないこっちの気にもなれ」
「そうなんだけど……」
「……わかった。とりあえず今は言わないようにする」
「絶対よ……?」
「了解。……ほら、手」
差し出された左手に右手を重ねる。ただそれだけの仕草でも涙が滲むのだから困った。
「そんなに泣くな。それ以上泣いたら抱きしめてキスするけど?」
困ったな……。
いつもなら学校ではいやだと主張するところだけど、今日はそうして欲しいと思ってしまうから、本当に困る。
「何、していいの?」
真顔で訊かれてなお困る。
何も答えられないうちに肩を引き寄せられ、ちゅ、と目の際に口付けらた。
さらには流れる涙を舐めとられ、「しょっぱい」と文句を言われる。
そんなこと言われても、「だって涙もの」としか答えようがない。
そんなやり取りに、ふたり顔を見合わせ少し笑った。
二階の一年B組の前まで来ると、胸にぐっと来るものがあった。
何度この後ろのドアからツカサに名前を呼ばれただろう。壁に凭れかかる立ち姿が脳裏に浮かぶ。
きっと、その姿を忘れることはない。でも――
「ツカサ、お願いがあるの」
「何?」
私は一年B組の後ろのドアを開き、「ここに立ってくれる?」とお願いした。
ツカサは不思議そうな顔をしながらも要望に応えてくれる。それも、きちんと壁に寄りかかった状態で。
私は窓際の自分の席だった場所まで移動すると、カメラの設定を済ませて数回シャッターを切った。
「なんでそんな遠くから?」
「だってここ、私の席だったんだもの」
「あぁ、そういうこと……」
ツカサは私がどんな写真を撮りたいと思っているのか、瞬時に理解してくれた。
そして三階へ上がろうとした私の手を掴み、
「その前に一階から二階に上がる階段に立ち寄って」
「え? どうして……?」
「俺がそこで撮りたい写真がある」
やっぱり写真を撮られなくちゃいけないのだろうか、と悶々としていると、
「そんなに構える必要ないから。カメラ、貸して」
私は渋々カメラを手渡した。
すると、ツカサは一階と二階の間にある踊り場から数段下がり、階段を見下ろす形で写真を撮り始めた。次は、一階から十段ほどの場所に立ち、私の後ろ姿を撮りたいと言う。
「どうして後ろ姿……? どっちにしろ、逆光だから黒っぽく写っちゃうよ? 設定変える?」
それらの質問にツカサは首を振り、後ろ姿の私を写真に収めた。
そのアングルになんの理由があるのかはわからない。でも、ツカサにとっては何か大切な意味があるようで、あとでデータを渡す約束をした。
三階へ上がれば向かう場所など一箇所しかない。二年A組の教室だ。
今は私のクラスで、一年前はツカサがいたクラス。そして、ツカサが使っていた机は、今は桃華さんが使っている。
ツカサには桃華さんの机に座るようお願いして、私は前のドアからのアングルで写真を撮らせてもらった。
一枚は外を向いている写真、二枚目はカメラ目線の写真。そして近くまで寄って、外を見ている横顔をバストアップの写真で撮らせてもらった。
プレビュー画面で確認をするも、やっぱりツカサの横顔、顎のラインが好きだな、と思う。
「満足?」
訊かれて私は笑顔で頷く。
「次は?」
たずねられて「食堂」と答えた。
まるで特別な時間を過ごすみたいにゆっくり校内を移動し食堂に着くと、普段の学校風景と変わらない程度に、生徒があちらこちらにいた。
私とツカサはお昼に食堂で待ち合わせをする際に使っていたテーブルを目指し、向き合う形で着席。
そのままのアングルで一枚。すると、カメラをよこすよう促され、私は唸りながらカメラを差し出した。
正面から一枚撮られ、次は奇妙なオーダーをされる。
「横向いて」
不思議に思いながら左を向くと、「反対」と指摘され右を向く。
シャッター音を聞いてから、
「どうして右?」
「……それ、トンボ玉をつけてる翠を撮りたかった」
言われて、うっかり赤面してしまった。
ただ、「トンボ玉を撮りたかった」と言われただけなのに。
私は恥ずかしさを隠すように、首元から指輪を取り出した。
「こっちに指輪をつけてる都合上、トンボ玉をつけるなら髪の毛結ぶしかなくてっ――」
ツカサは目を見開き驚いているようだ。
「どうしてそんなに驚くの……?」
まじまじと見られると、なんだか色々恥ずかしくなってくる。
するとツカサは視線を逸らし、
「ちょっと――いや、だいぶ嬉しかっただけ」
と恥ずかしそうに笑みを零した。
みんなが一言ずつ挨拶を交わしている中、私はひとりカメラのセッティングをしていた。
とてもじゃないけど、挨拶をして目に涙が滲んだ状態ではカメラのセッティングができそうにはなかったから。
黙々と作業をしていると、一通り挨拶が終わったらしい飛翔くんがやってきた。
「ほら、センパイも行ってこいよ」
その言葉に耳を疑う。
今、「先輩」って言った……?
中腰になっていた私は、高く遠い位置にある顔を凝視する。
「んだよ……」
飛翔くんは小さく零したけど、そんなのこっちが訊きたい。
今まで「先輩」などと呼ばれたことはなく、いつだって「おい」とか「あんた」とか「おまえ」だったのだから。
「なんで急に『先輩』……?」
飛翔くんは非常に面倒くさいものを見る目で舌打ちをした。
「そこ、わざわざ指摘してくんなよ、アホっ」
「だってっ、初めて言われたよっ!?」
「食いつくなバカっ」
「バカじゃないものっ」
「だー……ほら、行ってこいっつーの」
腕を掴まれ立たされると、ぶっきらぼうに背中を押されて前へ出た。すると、まるで私を待っていたかのように、三年生がそこへ並んでいて――
「翠葉、二年間ありがと!」
嵐子先輩にぎゅっと抱きしめられ、私は同じように抱きしめ返した。
「こちらこそ、とてもお世話になりました。本当に、お世話になりっぱなしで何も返せてないのにもう卒業なんて――」
言葉に詰まれば涙が出てくる。
「あー……また泣いちゃったよ」
優太先輩の言葉に、「ごめんなさい」と思わず謝る。
でも、謝っても何しても、涙が止まることはない。
久先輩や茜先輩が卒業するときにだって泣きはしたけど、今日ほどひどくはなかった。
やっぱり、一年と二年の歳月の差なのだろうか。
嵐子先輩から離れて手ぬぐいで涙を拭う。でも、やっぱり涙はなかなか止まってはくれなかった。
「翠葉ちゃん、俺は会計でかなりお世話になった口だよ?」
「そんなことっ――」
「あるでしょ? 一昨年の紅葉祭も、去年の紫苑祭も、俺と司は翠葉ちゃんがいてくれたから、会計以外の仕事を引き受けることができたんだ。翠葉ちゃんはあと一年大変だと思うけど、飛翔をこき使って乗り切ってね!」
「っ……はいっ!」
次に私の目の前に立ったのは朝陽先輩だった。
「二年間ありがとう」
「こちらこそ、たくさんお世話になりました」
「うん。でも、これからもよろしくね?」
「え……?」
「俺たち、嵐子ちゃん以外はみんなここの大学へ持ち上がりだし、俺に関して言えば、フェンシング部の後輩指導に招かれてる。だから、これからも校内で会うことがあると思う。……ね? 翠葉ちゃんが高校を卒業するまでは、会う機会が結構あると思わない?」
朝陽先輩らしい言い回しに笑みが漏れる。
「校内で会えるの、楽しみにしています!」
「うん。じゃ、最後――」
朝陽先輩に引き寄せられる形でツカサが目の前に立った。ただそれだけ――なのに、目が勝手に潤みだす。自分の意思でどうこうできないほどに。
「なんでそんなに泣く必要がある? たかだか高等部を卒業するだけだろ?」
確かに高校を卒業するだけだ。でも、もうお昼休みに一緒にお弁当を食べることはできないし、今よりも会う回数や時間は減ってしまうだろう。それが「たかだか」なの……? 寂しいと思っているのは私だけなの……?
そう思うと、今度は悲しさから涙が溢れてくる。
すると、ツカサの手が伸びてきて、頬を流れる涙を親指で拭われた。
「学校で会えないなら学校外で会えばいい。それだけのことだろ?」
当たり前のことのように言ってくれることが嬉しい。でも、制服を着て、校内で会えるのは今日が最後なのだ。
「何かあるなら言葉にして欲しいんだけど」
ツカサらしい催促に答えようとしたとき、嵐子先輩がツカサをどついた。
「わかってないなぁ……。学校で、しかも制服姿で会えるのは今日が最後なんだよ? そこんとこ理解してあげなよ」
「そうそう。だからこそ毎年、卒業式のあとは校内で記念撮影ができるようにって、午後三時まではすべての教室が開放されてる」
優太先輩の追加情報に、そういう慣わしがあることは知っているけど、校内で撮影したい人の思いまでは理解できない。ツカサはそんな顔をしていた。
「翠もそれ、やりたいの?」
くだらない、と思われるだろうか。
でも、校内にいるツカサを写真に撮りたいというか、目に焼き付けたい思いはあってコクリと頷く。と、
「わかった。じゃ、あとで校内散歩ね」
意外なほどあっさりと請合ってくれた。
「本当に……? 写真、撮らせてくれるの?」
「翠の写真も撮らせてくれるなら?」
ちょっと意地悪く、口端を上げて言われる。
「司さぁ、今日くらい交換条件なしにしてやれよ」
海斗くんの言葉をツカサはスルーする。
やっぱり、交換条件なしには撮らせてもらえないよねぇ……と若干落ち込んでいると、
「ほらほら、話もまとまったところで、とりあえずは記念撮影しませんかね?」
サザナミくんに促され、私は最後の設定を済ませた。
「誰かひとりでも笑ったら、シャッターが落ちるようになっています」
その言葉に、みんなが三年生四人を囲むように並び始める。
「翠葉はここ」
海斗くんに言われてツカサの隣に立つと、
「翠」
呼ばれてツカサを見上げる。と、見覚えのある縁が紺の青いハンカチで涙を拭われた。
一連のやり取りを見て笑われたのか、シャッターが次々と切られる。
「ほら、翠葉も前向いて!」
嵐子先輩に言われて、私は泣き顔のままカメラの方を向いた。
生徒会メンバー揃っての記念撮影のあとは、各々撮りたいメンバーと数人での撮影会になり、私も何枚か一緒に写ったけれど、どんなに涙を拭ったところで泣き顔なことに変わりはなく、みんながキラキラの笑顔で写る中、私ひとりは散々な顔で写っていた。
そんな時間は十分もあれば終わってしまい、十二時を前に解散することになった。
周りにいた卒業生や在校生たちもかなりばらけてきている。
高校最後の学食を食べに食堂へ行く人たちもいれば、開放されている校内をめぐり記念撮影する姿も見られる。
その様子を眺めていると、
「校内って、どこに行きたいの?」
ツカサに訊かれて困ってしまう。
とくにどこ、という希望はなく、学校にいるツカサならなんでもよくて……。
返答できずにいると、
「ひとまず一、二年棟から回るか」
その提案に、私は飛びつく勢いで賛成した。
昇降口を入り、一階から順番に回っていく。
けれど一、二年棟の一階には保健室と教科準備室があるくらいなので、私たち以外には誰もいなかった。
保健室の前で立ち止まったツカサは、
「覚えてる? 翠が高校に入学して数日で保健室に運び込まれたの」
「……覚えてる。その節はお世話になりました」
ペコリと頭を下げると、ツカサに軽く小突かれる。
「これからは今まで以上に気をつけてくれないと困る。いくら助けたくても、俺はもう同じ校内にはいない」
その言葉に、せっかくおさまっていた涙が再度溢れ出す。
「ツカサ、それ禁止……。いないって言われると、寂しくて涙が出てくる……」
「そうはいっても事実だし、どれだけ念を押しても押したりないこっちの気にもなれ」
「そうなんだけど……」
「……わかった。とりあえず今は言わないようにする」
「絶対よ……?」
「了解。……ほら、手」
差し出された左手に右手を重ねる。ただそれだけの仕草でも涙が滲むのだから困った。
「そんなに泣くな。それ以上泣いたら抱きしめてキスするけど?」
困ったな……。
いつもなら学校ではいやだと主張するところだけど、今日はそうして欲しいと思ってしまうから、本当に困る。
「何、していいの?」
真顔で訊かれてなお困る。
何も答えられないうちに肩を引き寄せられ、ちゅ、と目の際に口付けらた。
さらには流れる涙を舐めとられ、「しょっぱい」と文句を言われる。
そんなこと言われても、「だって涙もの」としか答えようがない。
そんなやり取りに、ふたり顔を見合わせ少し笑った。
二階の一年B組の前まで来ると、胸にぐっと来るものがあった。
何度この後ろのドアからツカサに名前を呼ばれただろう。壁に凭れかかる立ち姿が脳裏に浮かぶ。
きっと、その姿を忘れることはない。でも――
「ツカサ、お願いがあるの」
「何?」
私は一年B組の後ろのドアを開き、「ここに立ってくれる?」とお願いした。
ツカサは不思議そうな顔をしながらも要望に応えてくれる。それも、きちんと壁に寄りかかった状態で。
私は窓際の自分の席だった場所まで移動すると、カメラの設定を済ませて数回シャッターを切った。
「なんでそんな遠くから?」
「だってここ、私の席だったんだもの」
「あぁ、そういうこと……」
ツカサは私がどんな写真を撮りたいと思っているのか、瞬時に理解してくれた。
そして三階へ上がろうとした私の手を掴み、
「その前に一階から二階に上がる階段に立ち寄って」
「え? どうして……?」
「俺がそこで撮りたい写真がある」
やっぱり写真を撮られなくちゃいけないのだろうか、と悶々としていると、
「そんなに構える必要ないから。カメラ、貸して」
私は渋々カメラを手渡した。
すると、ツカサは一階と二階の間にある踊り場から数段下がり、階段を見下ろす形で写真を撮り始めた。次は、一階から十段ほどの場所に立ち、私の後ろ姿を撮りたいと言う。
「どうして後ろ姿……? どっちにしろ、逆光だから黒っぽく写っちゃうよ? 設定変える?」
それらの質問にツカサは首を振り、後ろ姿の私を写真に収めた。
そのアングルになんの理由があるのかはわからない。でも、ツカサにとっては何か大切な意味があるようで、あとでデータを渡す約束をした。
三階へ上がれば向かう場所など一箇所しかない。二年A組の教室だ。
今は私のクラスで、一年前はツカサがいたクラス。そして、ツカサが使っていた机は、今は桃華さんが使っている。
ツカサには桃華さんの机に座るようお願いして、私は前のドアからのアングルで写真を撮らせてもらった。
一枚は外を向いている写真、二枚目はカメラ目線の写真。そして近くまで寄って、外を見ている横顔をバストアップの写真で撮らせてもらった。
プレビュー画面で確認をするも、やっぱりツカサの横顔、顎のラインが好きだな、と思う。
「満足?」
訊かれて私は笑顔で頷く。
「次は?」
たずねられて「食堂」と答えた。
まるで特別な時間を過ごすみたいにゆっくり校内を移動し食堂に着くと、普段の学校風景と変わらない程度に、生徒があちらこちらにいた。
私とツカサはお昼に食堂で待ち合わせをする際に使っていたテーブルを目指し、向き合う形で着席。
そのままのアングルで一枚。すると、カメラをよこすよう促され、私は唸りながらカメラを差し出した。
正面から一枚撮られ、次は奇妙なオーダーをされる。
「横向いて」
不思議に思いながら左を向くと、「反対」と指摘され右を向く。
シャッター音を聞いてから、
「どうして右?」
「……それ、トンボ玉をつけてる翠を撮りたかった」
言われて、うっかり赤面してしまった。
ただ、「トンボ玉を撮りたかった」と言われただけなのに。
私は恥ずかしさを隠すように、首元から指輪を取り出した。
「こっちに指輪をつけてる都合上、トンボ玉をつけるなら髪の毛結ぶしかなくてっ――」
ツカサは目を見開き驚いているようだ。
「どうしてそんなに驚くの……?」
まじまじと見られると、なんだか色々恥ずかしくなってくる。
するとツカサは視線を逸らし、
「ちょっと――いや、だいぶ嬉しかっただけ」
と恥ずかしそうに笑みを零した。