光のもとでⅡ
Side 司 02話
会食当日、レストランの個室で御園生家の到着を待っていると、
「静、遅刻しないでしょうねぇ……」
左側に座る姉さんの形相が極悪すぎた。
スマホを睨みつけている姉さんを横目に見ていると、俺の右隣に座っていた母さんが口を開いた。
「静くん、今日はホテルにいるのでしょう? なら、時間通りに来てくれるわ。それよりも湊ちゃん、そんな怖いお顔しないの」
まるで小さい子を叱るようなお小言に、姉さんは渋々表情を改める。
その姉さんの向こうでは、兄さんと義姉さんが煌相手に奮闘していた。
「さっきミルク飲ませたから、会食の間は寝ててくれると助かるんだけど……」
不安そうな表情で零す義姉さんに、
「子どもって思い通りには動いてくれないからなぁ……。ま、煌も翠葉ちゃんのことは好きだから、翠葉ちゃんを見ればご機嫌になるよ」
「でも、翠葉ちゃん今日は振袖でしょう? 抱っこはお願いできないわぁ……」
「確かに……。そこは俺ががんばりましょう?」
どこか引きつり笑いで兄さんが請合った。
そこへドアがノックされ、澤村さんに案内された御園生家が入ってくる。
女性の服装が着物になったと母さんに聞いたときから、翠の着物は藤の会で見た紫色の振袖だと思っていた。が、今日着ているのは別の振袖。
淡く優しいピンク地に彩り豊かな花の模様が描かれており、紫の振袖とはまったく違う印象を受ける。
それに加え、ほんのりと化粧を施された翠は、まるで日本人形のように美しかった。
うっかり見惚れていると、俺が何を言う前にうちの女どもに囲まれてしまう。
出遅れた感半端ない……。
そんな俺に気づいたのか、煌を抱っこしていた兄さんに肘で突かれた。
「あとでふたりきりになったときにでも感想言ってあげな。誰に言われるより、司に言われたいだろうからさ」
「……そうする」
みんなが席に着いてから静さんが遅れて入ってくると、姉さんがぶち切れた。
「静、遅刻よっ。遅れないでってあれほど言っておいたのにっ」
「すまない。部屋を出る前に電話が鳴ってね」
静さんは怒っている姉さんを適当にあしらい両親に謝罪をすると、対面に座っている御園生側にもきっちり腰を折って謝罪した。
翠はというと、姉さんと俺の間に座った静さんをじっと見ている。
きっと、姉さんと静さんが揃っているところに新鮮味を覚えたか何か。すると、
「何かな? 未来の妹君」
静さんの言葉に妙に焦っているのが見て取れる。
まあ、その気持ちはわからなくもない。
俺だって、これが義兄だと言われても未だしっくりとこないのだから。
静さんは実にマイペースで、対角線に近い位置に座る零樹さんに声をかけた。
「零樹、まさかおまえと親戚関係になるとは思いもしなかったぞ」
「それを言うならこっちもだ」
そんな皮肉の応酬の末、両家の家族紹介が始まったわけだけど、すでに見知った関係なだけに、変な気分。
両親同士も面識があるし、姉夫婦に関しては片や旧知の仲で、もう片方は翠の主治医。
兄家族においては家が隣同士で近所付き合いがあるときている。
やっぱり家族紹介は省いてもよかったんじゃないか……?
微妙な空気が流れる中、仕切り直すかのように父さんが口を開いた。
「会食を始める前に、御園生さん――いえ、翠葉さん。ご確認したいことがございます」
翠は一瞬にして緊張を身に纏い、「なんでしょう?」と恐る恐るたずねる。
「私たち家族はこの婚約を望むと同時にとても喜んでおりますが、翠葉さんは本当に司でよろしいのですか?」
っ……何を言い出すかと思えば――
「うちの愚息のことです。婚約などしようものなら、それが破談になった暁には、精神的損害を理由に損害賠償を起こすとか言い出しかねませんよ?」
言葉の選びように吐き気がする。どうしてこうも考えていることを軽くトレースしてくるんだか……。
翠は翠で、「あ、それなら……」という感じで応答するし。
「では、それも承知で司と婚約していただけると解釈してもよろしいのでしょうか」
「はい……」
翠は短く返事をしたあと、魚が不器用に呼吸をするみたいに口を開け、
「ツカサが、いいんです……」
とても控えめに主張した。
それが嬉しくて、胸がほんのりあたたかくなるような感覚を得る。
その感覚は、自分を選んでほしいとずっと願ってきて、自分を選んでもらえたときに感じたものに近い。
その幸せな感覚に浸っていたいのに、父さんの確認はまだ終わらない。
御園生家の面々に視線を巡らせ、
「翠葉さんのお気持ちはわかりました。あとは翠葉さんのご家族へご確認させてください。うちの司は人間としてまだまだ未熟です。それでも、この婚約をお認めいただけるのでしょうか。もし、まだ早い、そうおっしゃるのでしたら数年後に出直させます」
……こっちが本音じゃないだろうな。
そんな視線を向けるも、自分の父親らしい、実に飄々とした視線を返される。
「私たちは娘を信じております。娘が選んだ人ならば、きっと娘は幸せになれるでしょう」
碧さんの返答に、
「それがお答えですか?」
次は零樹さんが口を開いた。
「はい、私たちは娘の幸せしか望んでおりませんので。ですが、うちの娘は体調に問題を抱えています。結婚すれば、司くんは間違いなく苦労することになるでしょう。それでも、うちの娘を迎えていただけるのでしょうか」
翠も不安がっていたけど、親も同じことを不安に思うものなんだな……。
体調に引け目を感じる必要などないと言おうとしたら、俺より先に父さんが答えた。
父さんはにこりと笑みを添え、
「ご心配なく。それは取り立てて問題視することではありませんし、うちは医者が多い家です。翠葉さんに何かあれば私どもで対応させていただきます。そういう意味でもご心配なさらないでください」
「ありがとうございます。とても心強いです」
それで終わりかと思えば、父さんは御園生さんと唯さんへの確認を始めた。
とっとと婚約してしまいたいのに、父親の確認作業が終わるまでは会食さえ始まらないようだ。
若干イライラしながら会話を見守っていると、
「自分は、翠葉が納得して婚約するのならば反対はしません」
シスコン代表の御園生さんにしては意外なほどあっさりと認めてくれた。けど、父さんから俺に移した視線には妙な凄みを感じる。
「翠葉を泣かせたら殺す」――そんな視線。
その隣で唯さんは、「俺もです……」といつになく小さな声で賛同。
不満があってその声音なのか、こういう場に慣れていないからなのか、はたまた静さんが同席している場に恐縮しているのか、ひとりそわそわしているのが見て取れる。
そんな唯さんの斜め前に座る義姉さんが、「あんた少し落ち着いたら?」と実に冷ややかな声をかけた。
翠に聞いた話だと、唯さんと義姉さんは小学校中学校が一緒で、成績の上位を競う仲だったとか……。
やり取りを見る分には仲がいいようには見えない。どちらかというと、互いに邪険にしているふう。
しかし父さんはそんなふたりを気に留める様子も見せず、
「では、合意を得られたところで婚約成立とさせていただいてもよろしいでしょうか。よろしければ拍手をお願いいたします」
個室に拍手の音が響くと同時、タイミングを図ったようにドアがノックされ食前酒が運ばれてきた。
和やかに会食が進む中、正面に座る翠の箸はなかなか進まない。
最初は食欲がないのかと思っていたが、観察を続けているうちに緊張が邪魔していることに気がつく。
これは早々に連れ出して、カフェか温室で軽食をオーダーするようかな。
そんな算段をし始めたころ、
「司、翠葉ちゃんを散歩に連れて行ってあげたらどうかな? もうお腹がいっぱいで食べられない、そんな顔をしているよ」
静さんに提案され、俺はこれ幸いと席を立ち、翠の側へ行き翠の椅子を引いた。
「温室には花が咲いているし、庭園を見て回るのもいい。それからホテルのチャペルを見学するのもいいんじゃないかな? 将来、式を挙げる際にはうちの系列を使ってくれるんだろう? 必要とあらば、パレスのパンフレットも一式揃えさせよう」
やや前のめり気味に話す静さんを引き止める声がかかる。
「せーい、まだ早いわよ。婚約期間は六年間よ? 六年後に最新のパンフレットをよこしてちょうだい」
碧さんの言葉に笑いが起き、俺たちは一礼して個室を出た。
廊下に出ると、翠はわかりやすく胸を撫で下ろす。
「何をそんなに緊張してるんだか。会食なんて試験のたびにやってるんだから慣れてるだろ?」
翠は情けない顔で見返してきた。
「今日はいつもの会食とは意味合いが違うでしょう? 婚約を取り交わすためのものだし、みんなかしこまった格好だったし……」
部屋に入ってきたときはそこまで緊張しているふうではなかったところを見ると、おそらくは父さんの余計な確認で緊張のスイッチが入ってしまったのだろう。
その点は申し訳ないとしか言いようがないわけだけど、それでも翠のこれは緊張しすぎだと思う。それに、
「静さんはああ言ってたけど、翠、あまり食べられてなかっただろ?」
翠は左手で喉を押さえながら、
「なんかものが喉を通らなくて……」
翠は情けなさに拍車をかけてうな垂れた。
きっと、料理を作ってくれたシェフに申し訳ないとでも思っているのだろう。
翠の意識をほかへ向けてやりたくて、
「温室へ行って軽食をオーダーしよう。それとも、デザートのほうが食べやすい?」
翠は首を傾げながら、
「メニューを見てから決めようかな」
その返答に、食欲がないわけではないんだな、と少しほっとした。
視線を前方へ向けると、エレベーターホールに澤村さんが待ち受けていた。
「会食はお済みになられたのですか?」
「あとはデザートのみです」
澤村さんは佇まいを直し、
「本日は、ご婚約おめでとうございます」
と腰を折った。
翠は「婚約」という言葉に反応したのか、顔を真っ赤にして俺の影に隠れてしまう。
そんな翠に代わって礼を述べると、
「おふたりはこれからホテル内を散策されるとうかがいしましたが、行き先はお決まりですか?」
「翠が緊張で料理にあまり手をつけられなかったので、温室で軽食でも、と思っています」
「さようでしたか。それでは、のちほど園田にメニューを持って行かせましょう」
そう言うと、澤村さんはエレベーターの階数ボタンを操作して、腰を折って俺たちを見送った。
ふたりきりになった途端、翠の背が俺の胸に預けられる。
その体重を心地よく感じながらも、少し不安になる。
「疲れた? それとも、帯が苦しくなってきたとか?」
肩越しに振り返った翠は苦笑を見せる。
「ううん、体調は大丈夫。ただ、少し気が抜けただけ」
「ふーん……」
完全に脱力しているふうの翠をそっと抱き寄せ、
「今日の振袖、よく似合ってる」
耳元で囁くと、翠は耳まで真っ赤に染め上げ、「ありがとう」ととても小さな声で礼を言った。
「静、遅刻しないでしょうねぇ……」
左側に座る姉さんの形相が極悪すぎた。
スマホを睨みつけている姉さんを横目に見ていると、俺の右隣に座っていた母さんが口を開いた。
「静くん、今日はホテルにいるのでしょう? なら、時間通りに来てくれるわ。それよりも湊ちゃん、そんな怖いお顔しないの」
まるで小さい子を叱るようなお小言に、姉さんは渋々表情を改める。
その姉さんの向こうでは、兄さんと義姉さんが煌相手に奮闘していた。
「さっきミルク飲ませたから、会食の間は寝ててくれると助かるんだけど……」
不安そうな表情で零す義姉さんに、
「子どもって思い通りには動いてくれないからなぁ……。ま、煌も翠葉ちゃんのことは好きだから、翠葉ちゃんを見ればご機嫌になるよ」
「でも、翠葉ちゃん今日は振袖でしょう? 抱っこはお願いできないわぁ……」
「確かに……。そこは俺ががんばりましょう?」
どこか引きつり笑いで兄さんが請合った。
そこへドアがノックされ、澤村さんに案内された御園生家が入ってくる。
女性の服装が着物になったと母さんに聞いたときから、翠の着物は藤の会で見た紫色の振袖だと思っていた。が、今日着ているのは別の振袖。
淡く優しいピンク地に彩り豊かな花の模様が描かれており、紫の振袖とはまったく違う印象を受ける。
それに加え、ほんのりと化粧を施された翠は、まるで日本人形のように美しかった。
うっかり見惚れていると、俺が何を言う前にうちの女どもに囲まれてしまう。
出遅れた感半端ない……。
そんな俺に気づいたのか、煌を抱っこしていた兄さんに肘で突かれた。
「あとでふたりきりになったときにでも感想言ってあげな。誰に言われるより、司に言われたいだろうからさ」
「……そうする」
みんなが席に着いてから静さんが遅れて入ってくると、姉さんがぶち切れた。
「静、遅刻よっ。遅れないでってあれほど言っておいたのにっ」
「すまない。部屋を出る前に電話が鳴ってね」
静さんは怒っている姉さんを適当にあしらい両親に謝罪をすると、対面に座っている御園生側にもきっちり腰を折って謝罪した。
翠はというと、姉さんと俺の間に座った静さんをじっと見ている。
きっと、姉さんと静さんが揃っているところに新鮮味を覚えたか何か。すると、
「何かな? 未来の妹君」
静さんの言葉に妙に焦っているのが見て取れる。
まあ、その気持ちはわからなくもない。
俺だって、これが義兄だと言われても未だしっくりとこないのだから。
静さんは実にマイペースで、対角線に近い位置に座る零樹さんに声をかけた。
「零樹、まさかおまえと親戚関係になるとは思いもしなかったぞ」
「それを言うならこっちもだ」
そんな皮肉の応酬の末、両家の家族紹介が始まったわけだけど、すでに見知った関係なだけに、変な気分。
両親同士も面識があるし、姉夫婦に関しては片や旧知の仲で、もう片方は翠の主治医。
兄家族においては家が隣同士で近所付き合いがあるときている。
やっぱり家族紹介は省いてもよかったんじゃないか……?
微妙な空気が流れる中、仕切り直すかのように父さんが口を開いた。
「会食を始める前に、御園生さん――いえ、翠葉さん。ご確認したいことがございます」
翠は一瞬にして緊張を身に纏い、「なんでしょう?」と恐る恐るたずねる。
「私たち家族はこの婚約を望むと同時にとても喜んでおりますが、翠葉さんは本当に司でよろしいのですか?」
っ……何を言い出すかと思えば――
「うちの愚息のことです。婚約などしようものなら、それが破談になった暁には、精神的損害を理由に損害賠償を起こすとか言い出しかねませんよ?」
言葉の選びように吐き気がする。どうしてこうも考えていることを軽くトレースしてくるんだか……。
翠は翠で、「あ、それなら……」という感じで応答するし。
「では、それも承知で司と婚約していただけると解釈してもよろしいのでしょうか」
「はい……」
翠は短く返事をしたあと、魚が不器用に呼吸をするみたいに口を開け、
「ツカサが、いいんです……」
とても控えめに主張した。
それが嬉しくて、胸がほんのりあたたかくなるような感覚を得る。
その感覚は、自分を選んでほしいとずっと願ってきて、自分を選んでもらえたときに感じたものに近い。
その幸せな感覚に浸っていたいのに、父さんの確認はまだ終わらない。
御園生家の面々に視線を巡らせ、
「翠葉さんのお気持ちはわかりました。あとは翠葉さんのご家族へご確認させてください。うちの司は人間としてまだまだ未熟です。それでも、この婚約をお認めいただけるのでしょうか。もし、まだ早い、そうおっしゃるのでしたら数年後に出直させます」
……こっちが本音じゃないだろうな。
そんな視線を向けるも、自分の父親らしい、実に飄々とした視線を返される。
「私たちは娘を信じております。娘が選んだ人ならば、きっと娘は幸せになれるでしょう」
碧さんの返答に、
「それがお答えですか?」
次は零樹さんが口を開いた。
「はい、私たちは娘の幸せしか望んでおりませんので。ですが、うちの娘は体調に問題を抱えています。結婚すれば、司くんは間違いなく苦労することになるでしょう。それでも、うちの娘を迎えていただけるのでしょうか」
翠も不安がっていたけど、親も同じことを不安に思うものなんだな……。
体調に引け目を感じる必要などないと言おうとしたら、俺より先に父さんが答えた。
父さんはにこりと笑みを添え、
「ご心配なく。それは取り立てて問題視することではありませんし、うちは医者が多い家です。翠葉さんに何かあれば私どもで対応させていただきます。そういう意味でもご心配なさらないでください」
「ありがとうございます。とても心強いです」
それで終わりかと思えば、父さんは御園生さんと唯さんへの確認を始めた。
とっとと婚約してしまいたいのに、父親の確認作業が終わるまでは会食さえ始まらないようだ。
若干イライラしながら会話を見守っていると、
「自分は、翠葉が納得して婚約するのならば反対はしません」
シスコン代表の御園生さんにしては意外なほどあっさりと認めてくれた。けど、父さんから俺に移した視線には妙な凄みを感じる。
「翠葉を泣かせたら殺す」――そんな視線。
その隣で唯さんは、「俺もです……」といつになく小さな声で賛同。
不満があってその声音なのか、こういう場に慣れていないからなのか、はたまた静さんが同席している場に恐縮しているのか、ひとりそわそわしているのが見て取れる。
そんな唯さんの斜め前に座る義姉さんが、「あんた少し落ち着いたら?」と実に冷ややかな声をかけた。
翠に聞いた話だと、唯さんと義姉さんは小学校中学校が一緒で、成績の上位を競う仲だったとか……。
やり取りを見る分には仲がいいようには見えない。どちらかというと、互いに邪険にしているふう。
しかし父さんはそんなふたりを気に留める様子も見せず、
「では、合意を得られたところで婚約成立とさせていただいてもよろしいでしょうか。よろしければ拍手をお願いいたします」
個室に拍手の音が響くと同時、タイミングを図ったようにドアがノックされ食前酒が運ばれてきた。
和やかに会食が進む中、正面に座る翠の箸はなかなか進まない。
最初は食欲がないのかと思っていたが、観察を続けているうちに緊張が邪魔していることに気がつく。
これは早々に連れ出して、カフェか温室で軽食をオーダーするようかな。
そんな算段をし始めたころ、
「司、翠葉ちゃんを散歩に連れて行ってあげたらどうかな? もうお腹がいっぱいで食べられない、そんな顔をしているよ」
静さんに提案され、俺はこれ幸いと席を立ち、翠の側へ行き翠の椅子を引いた。
「温室には花が咲いているし、庭園を見て回るのもいい。それからホテルのチャペルを見学するのもいいんじゃないかな? 将来、式を挙げる際にはうちの系列を使ってくれるんだろう? 必要とあらば、パレスのパンフレットも一式揃えさせよう」
やや前のめり気味に話す静さんを引き止める声がかかる。
「せーい、まだ早いわよ。婚約期間は六年間よ? 六年後に最新のパンフレットをよこしてちょうだい」
碧さんの言葉に笑いが起き、俺たちは一礼して個室を出た。
廊下に出ると、翠はわかりやすく胸を撫で下ろす。
「何をそんなに緊張してるんだか。会食なんて試験のたびにやってるんだから慣れてるだろ?」
翠は情けない顔で見返してきた。
「今日はいつもの会食とは意味合いが違うでしょう? 婚約を取り交わすためのものだし、みんなかしこまった格好だったし……」
部屋に入ってきたときはそこまで緊張しているふうではなかったところを見ると、おそらくは父さんの余計な確認で緊張のスイッチが入ってしまったのだろう。
その点は申し訳ないとしか言いようがないわけだけど、それでも翠のこれは緊張しすぎだと思う。それに、
「静さんはああ言ってたけど、翠、あまり食べられてなかっただろ?」
翠は左手で喉を押さえながら、
「なんかものが喉を通らなくて……」
翠は情けなさに拍車をかけてうな垂れた。
きっと、料理を作ってくれたシェフに申し訳ないとでも思っているのだろう。
翠の意識をほかへ向けてやりたくて、
「温室へ行って軽食をオーダーしよう。それとも、デザートのほうが食べやすい?」
翠は首を傾げながら、
「メニューを見てから決めようかな」
その返答に、食欲がないわけではないんだな、と少しほっとした。
視線を前方へ向けると、エレベーターホールに澤村さんが待ち受けていた。
「会食はお済みになられたのですか?」
「あとはデザートのみです」
澤村さんは佇まいを直し、
「本日は、ご婚約おめでとうございます」
と腰を折った。
翠は「婚約」という言葉に反応したのか、顔を真っ赤にして俺の影に隠れてしまう。
そんな翠に代わって礼を述べると、
「おふたりはこれからホテル内を散策されるとうかがいしましたが、行き先はお決まりですか?」
「翠が緊張で料理にあまり手をつけられなかったので、温室で軽食でも、と思っています」
「さようでしたか。それでは、のちほど園田にメニューを持って行かせましょう」
そう言うと、澤村さんはエレベーターの階数ボタンを操作して、腰を折って俺たちを見送った。
ふたりきりになった途端、翠の背が俺の胸に預けられる。
その体重を心地よく感じながらも、少し不安になる。
「疲れた? それとも、帯が苦しくなってきたとか?」
肩越しに振り返った翠は苦笑を見せる。
「ううん、体調は大丈夫。ただ、少し気が抜けただけ」
「ふーん……」
完全に脱力しているふうの翠をそっと抱き寄せ、
「今日の振袖、よく似合ってる」
耳元で囁くと、翠は耳まで真っ赤に染め上げ、「ありがとう」ととても小さな声で礼を言った。