光のもとでⅡ
フィアンセの紹介 Side 翠葉 02話
月曜日、学校から帰宅すると、ゲストルームには唯兄と秋斗さんの姿しかなかった。
ほかの三人は、まだ仕事が終わらず幸倉で仕事をしているのだとか。
手洗いうがいを済ませ、私服に着替えてキッチンへ行くと、
「今日は煮込みうどんだよー」
唯兄は三口コンロをすべて使って、一人用の土鍋を三つ同時に温めていた。
「何か手伝うことある?」
「箸もレンゲも持ってったし、お茶も準備万端! とくにないからリビング行ってていいよ」
「わかった」
キッチンを出ようとして足が竦んだ。
リビングで秋斗さんとふたりきりになると思った途端、緊張が走ったのだ、
何を隠そう、ツカサと婚約してから秋斗さんとふたりきりになるのは初めてのこと。
もっと言うなら、元旦に電話で話してからというもの、プロポーズされた件には触れずにきた。
婚約の日取りが決まっても、秋斗さんがいる場ではその話が話題にあがることはなかったし、自分から報告することは避けていた。
けど、正式に婚約した今、秋斗さんが知らないわけはないだろう。
蒼兄や唯兄から聞いていてもおかしくないし、ツカサもしくは朗元さん経由で聞いていても不思議ではない。
気まずい思いで足を踏み出すと、まるで待ち構えていたかのように秋斗さんがこちらを見ていた。
「おかえり」
「ただいま、帰りました……」
どうしよう……。会話が続かないし、視線を合わせているのが微妙につらい。
決して悪いことをしたわけではないのに、どうしてこんなにも罪悪感を覚えるのだろう……。
ツカサを好きになってしまったことによる罪悪感に加え、「婚約」したことでさらなる罪悪感が上乗せ……。「結婚」などしようものなら、それ以上の罪悪感が襲ってきたりするのだろうか。
ラグに座った私は緊張に耐えかねて、視線をテーブルに落としてしまった。
すると、クスクスと笑い声が聞えてくる。それは紛れもなく秋斗さんの声で、恐る恐る顔を上げると、
「翠葉ちゃんは本当にわかりやすいなぁ……。そんなわかりやすく気まずそうな顔をされたら、ついつい意地悪したくなっちゃうよね」
「っ……」
「……俺に、何か報告することはない? たとえば、元旦に相談された件に関することだとか」
秋斗さんはにこやかなままたずねてくる。
これは間違いなく「婚約」を指しているのだろう。
「あのっ――」
「うん」
「先日、ツカサと正式に婚約しました」
「それで?」
それで……?
「えぇと……六年後、ツカサが大学を卒業すると同時に入籍する予定です」
視線を秋斗さんの肩あたりに彷徨わせて口にすると、
「ふーん……あんなに取り乱した翠葉ちゃんを、司がどんなふうに口説き落としたのかは非常に興味があるなぁ……。そのあたり、詳しく教えてもらえる?」
「う……それは……企業秘密です」
秋斗さんはクスクスと笑う。
「そっか、それはさすがに教えてもらえないか……。じゃ、今度司本人に訊いてみようかな? ……婚約のこと、教えてくれてありがとね。教えてくれる人間はいたんだけど、やっぱり翠葉ちゃんの口から聞きたかったんだ。……で、まずは婚約おめでとう、かな?」
その言葉にそろりと表情をうかがう。と、秋斗さんはにこにこと笑っていた。
笑顔の理由がわからなくて怖い……。
嘘偽りなく、心から「おめでとう」と言われているのだろうか。
真意を探ろうにも鉄壁の笑顔で、表情からは何も読み取れない。すると、
「でも、結婚まではあと六年あるわけだ」
「え……?」
「じゃ、その間にがんばって口説かなくちゃね」
秋斗さんは図ったみたいにきれいに片目を閉じて見せた。
呆気に取られていると、土鍋を運んできた唯兄が会話に加わる。
「リィ、気に病むだけ無駄無駄。この人ほんっとしつっこいんだから」
そう言って秋斗さんの前に土鍋を置くと、パタパタとキッチンへ引き返し、私の分の土鍋を持って戻ってきた。
「あと六年間猶予があるとか言ってるけど、結婚したからってこの人が諦めるとは思わないようにね? この人、とことん初恋拗らせてるからさ」
そう言って、今度は自分の土鍋を取りにキッチンへ戻った。
呆然としていると、
「唯が言ってることはあながち間違ってないと思うよ? ひとまず六年間の猶予とは思っているけど、翠葉ちゃんと司が結婚したからといって、俺が君を諦められるかは別問題だからね。それに、世の中には『離婚』っていうすばらしい手続きも存在するわけだし」
そこまで言われてふと思う。
もう、気にしなくてもいいかな、と。
ツカサを好きになってからずっと、申し訳ない気持ちに苛まれてきたけれど、もう、いいかな……?
正直、これ以上この罪悪感と付き合っていたら身がもちそうにないし、神経諸々すり減っていいことはなさそうだ。
私は心して口を開き、秋斗さんと対峙する。
「あの……」
「ん?」
「秋斗さんも開き直っているみたいなので、私も開き直ってしまっていいですか?」
ストレートにたずねると、左側のソファに着席したばかりの唯兄が、ソファに転がって笑いだした。
唯兄から秋斗さんに視線を戻すと、秋斗さんもおかしそうに表情を緩めている。
「あの……真面目な提案なんですけど……」
ちょっとむくれて返答を促すと、「いいよ」と軽やかな返答があった。
一頻り笑った唯兄がむくりと起き上がると時計を見て、
「リィ、そろそろご飯食べ始めないと、レッスン前のウォーミングアップできなくなるよ」
「あっ、急がなくちゃっ――」
私は慌てて土鍋の蓋を開け、食べやすいようにと用意されたお椀に少しずつよそって煮込みうどんを食べ始めた。
唯兄と秋斗さんに見送られてゲストルームを出ると、十階から下りてきたエレベーターにツカサが乗っていた。
「今日はずっとマンションにいたの?」
「いや、昼過ぎに来た」
「えっ? じゃ、お夕飯は?」
「コンシェルジュにオーダーしたから問題ない」
「そうだったのね……」
「翠は? 軽く食べる時間あったの?」
「うん。今日は幸倉組が仕事で帰宅してなくて、唯兄が煮込みうどん作ってくれてた」
「……それ、秋兄も一緒?」
「え? うん。一緒だったよ」
ツカサは一拍置いてから、
「何か言われた?」
これもたぶん、「婚約」のことを訊かれたかどうか、という質問なのだろう。
「えぇと……『報告することはない?』って訊かれて、ツカサと正式に婚約したことと、六年後に入籍することを伝えたの。でも、ほかの人から聞いて知ってたみたいだった」
ツカサはため息をつき、
「俺が言った。っていうか……卒業式の日、じーさんに報告する場に秋兄もいたから」
なるほど、そういうことだったのか……。
「ほかは? 翠の報告を聞いておとなしくしてる人間でもないだろ?」
「あ、えと……六年後に入籍っていうことは、六年間は猶予があるんだ、って言われた。でも、結婚しても自分が諦めるかどうかは別問題だし、世の中には離婚っていうすばらしい手続きも存在するからとか言われてしまいました」
ツカサは呆れた様相で、
「で? 翠はなんて答えたわけ?」
「えぇと……開き直った秋斗さんを見ていたら、言い寄られるたびに神経すり減らしているのがなんだか馬鹿らしくなってきちゃって、『私も開きなおっていいですか?』ってたずねたの。そしたら、笑いながらいいよって言われた。だからね、これからは秋斗さんに何を言われても気にするのはやめようかなって思ってる」
そこまで話すとツカサは口端を上げ、「いいんじゃない?」と満足そうに口にした。
ほかの三人は、まだ仕事が終わらず幸倉で仕事をしているのだとか。
手洗いうがいを済ませ、私服に着替えてキッチンへ行くと、
「今日は煮込みうどんだよー」
唯兄は三口コンロをすべて使って、一人用の土鍋を三つ同時に温めていた。
「何か手伝うことある?」
「箸もレンゲも持ってったし、お茶も準備万端! とくにないからリビング行ってていいよ」
「わかった」
キッチンを出ようとして足が竦んだ。
リビングで秋斗さんとふたりきりになると思った途端、緊張が走ったのだ、
何を隠そう、ツカサと婚約してから秋斗さんとふたりきりになるのは初めてのこと。
もっと言うなら、元旦に電話で話してからというもの、プロポーズされた件には触れずにきた。
婚約の日取りが決まっても、秋斗さんがいる場ではその話が話題にあがることはなかったし、自分から報告することは避けていた。
けど、正式に婚約した今、秋斗さんが知らないわけはないだろう。
蒼兄や唯兄から聞いていてもおかしくないし、ツカサもしくは朗元さん経由で聞いていても不思議ではない。
気まずい思いで足を踏み出すと、まるで待ち構えていたかのように秋斗さんがこちらを見ていた。
「おかえり」
「ただいま、帰りました……」
どうしよう……。会話が続かないし、視線を合わせているのが微妙につらい。
決して悪いことをしたわけではないのに、どうしてこんなにも罪悪感を覚えるのだろう……。
ツカサを好きになってしまったことによる罪悪感に加え、「婚約」したことでさらなる罪悪感が上乗せ……。「結婚」などしようものなら、それ以上の罪悪感が襲ってきたりするのだろうか。
ラグに座った私は緊張に耐えかねて、視線をテーブルに落としてしまった。
すると、クスクスと笑い声が聞えてくる。それは紛れもなく秋斗さんの声で、恐る恐る顔を上げると、
「翠葉ちゃんは本当にわかりやすいなぁ……。そんなわかりやすく気まずそうな顔をされたら、ついつい意地悪したくなっちゃうよね」
「っ……」
「……俺に、何か報告することはない? たとえば、元旦に相談された件に関することだとか」
秋斗さんはにこやかなままたずねてくる。
これは間違いなく「婚約」を指しているのだろう。
「あのっ――」
「うん」
「先日、ツカサと正式に婚約しました」
「それで?」
それで……?
「えぇと……六年後、ツカサが大学を卒業すると同時に入籍する予定です」
視線を秋斗さんの肩あたりに彷徨わせて口にすると、
「ふーん……あんなに取り乱した翠葉ちゃんを、司がどんなふうに口説き落としたのかは非常に興味があるなぁ……。そのあたり、詳しく教えてもらえる?」
「う……それは……企業秘密です」
秋斗さんはクスクスと笑う。
「そっか、それはさすがに教えてもらえないか……。じゃ、今度司本人に訊いてみようかな? ……婚約のこと、教えてくれてありがとね。教えてくれる人間はいたんだけど、やっぱり翠葉ちゃんの口から聞きたかったんだ。……で、まずは婚約おめでとう、かな?」
その言葉にそろりと表情をうかがう。と、秋斗さんはにこにこと笑っていた。
笑顔の理由がわからなくて怖い……。
嘘偽りなく、心から「おめでとう」と言われているのだろうか。
真意を探ろうにも鉄壁の笑顔で、表情からは何も読み取れない。すると、
「でも、結婚まではあと六年あるわけだ」
「え……?」
「じゃ、その間にがんばって口説かなくちゃね」
秋斗さんは図ったみたいにきれいに片目を閉じて見せた。
呆気に取られていると、土鍋を運んできた唯兄が会話に加わる。
「リィ、気に病むだけ無駄無駄。この人ほんっとしつっこいんだから」
そう言って秋斗さんの前に土鍋を置くと、パタパタとキッチンへ引き返し、私の分の土鍋を持って戻ってきた。
「あと六年間猶予があるとか言ってるけど、結婚したからってこの人が諦めるとは思わないようにね? この人、とことん初恋拗らせてるからさ」
そう言って、今度は自分の土鍋を取りにキッチンへ戻った。
呆然としていると、
「唯が言ってることはあながち間違ってないと思うよ? ひとまず六年間の猶予とは思っているけど、翠葉ちゃんと司が結婚したからといって、俺が君を諦められるかは別問題だからね。それに、世の中には『離婚』っていうすばらしい手続きも存在するわけだし」
そこまで言われてふと思う。
もう、気にしなくてもいいかな、と。
ツカサを好きになってからずっと、申し訳ない気持ちに苛まれてきたけれど、もう、いいかな……?
正直、これ以上この罪悪感と付き合っていたら身がもちそうにないし、神経諸々すり減っていいことはなさそうだ。
私は心して口を開き、秋斗さんと対峙する。
「あの……」
「ん?」
「秋斗さんも開き直っているみたいなので、私も開き直ってしまっていいですか?」
ストレートにたずねると、左側のソファに着席したばかりの唯兄が、ソファに転がって笑いだした。
唯兄から秋斗さんに視線を戻すと、秋斗さんもおかしそうに表情を緩めている。
「あの……真面目な提案なんですけど……」
ちょっとむくれて返答を促すと、「いいよ」と軽やかな返答があった。
一頻り笑った唯兄がむくりと起き上がると時計を見て、
「リィ、そろそろご飯食べ始めないと、レッスン前のウォーミングアップできなくなるよ」
「あっ、急がなくちゃっ――」
私は慌てて土鍋の蓋を開け、食べやすいようにと用意されたお椀に少しずつよそって煮込みうどんを食べ始めた。
唯兄と秋斗さんに見送られてゲストルームを出ると、十階から下りてきたエレベーターにツカサが乗っていた。
「今日はずっとマンションにいたの?」
「いや、昼過ぎに来た」
「えっ? じゃ、お夕飯は?」
「コンシェルジュにオーダーしたから問題ない」
「そうだったのね……」
「翠は? 軽く食べる時間あったの?」
「うん。今日は幸倉組が仕事で帰宅してなくて、唯兄が煮込みうどん作ってくれてた」
「……それ、秋兄も一緒?」
「え? うん。一緒だったよ」
ツカサは一拍置いてから、
「何か言われた?」
これもたぶん、「婚約」のことを訊かれたかどうか、という質問なのだろう。
「えぇと……『報告することはない?』って訊かれて、ツカサと正式に婚約したことと、六年後に入籍することを伝えたの。でも、ほかの人から聞いて知ってたみたいだった」
ツカサはため息をつき、
「俺が言った。っていうか……卒業式の日、じーさんに報告する場に秋兄もいたから」
なるほど、そういうことだったのか……。
「ほかは? 翠の報告を聞いておとなしくしてる人間でもないだろ?」
「あ、えと……六年後に入籍っていうことは、六年間は猶予があるんだ、って言われた。でも、結婚しても自分が諦めるかどうかは別問題だし、世の中には離婚っていうすばらしい手続きも存在するからとか言われてしまいました」
ツカサは呆れた様相で、
「で? 翠はなんて答えたわけ?」
「えぇと……開き直った秋斗さんを見ていたら、言い寄られるたびに神経すり減らしているのがなんだか馬鹿らしくなってきちゃって、『私も開きなおっていいですか?』ってたずねたの。そしたら、笑いながらいいよって言われた。だからね、これからは秋斗さんに何を言われても気にするのはやめようかなって思ってる」
そこまで話すとツカサは口端を上げ、「いいんじゃない?」と満足そうに口にした。