光のもとでⅡ

害虫認定→害虫駆除 Side 司 03話

 ピアノのレッスンが終わるタイミングで高崎さんがカートを押して入ってきた。
 手際よくテーブルセッティングしているそれを見ていると、左耳が倉敷の声をキャッチした。
「翠葉、先々週の日曜日、ウィステリアホテルにいた?」
 翠は目を見開きものすごく驚いた表情で倉敷を見ている。しかも、その状態でしばらく静止。
 倉敷が名前を呼ぶと、はじかれたように口を開いた。
「えっ!? あっ、うん、いた。でも、どうして?」
 その問いには仙波さんが答える。
「実はその日、僕も慧くんもホテルにいたんですよ。知人の結婚式がありまして」
 なるほど……。じゃ、あの日翠と一緒にいるところをどこかで見られていたわけか。
 俺は心の中でほくそ笑む。
「実はその日なんです。自分が翠と婚約したのは」
 するとすぐさま翠から視線が飛んできた。
 すなわち、「余計なことは言わないで!」かな?
 でも、翠にとっては余計なことでも、俺にとっては余計なことじゃない。
 俺は翠の視線を無視してかばんから一枚の封筒を取り出すと、中から写真を取り出しテーブルの上を滑らせた。
「そのときの写真です。よろしければどうぞ」
 倉敷は写真を食い入るように見るものの、手を伸ばそうとはしない。すると、仙波さんが動き、俺と倉敷の中間地点に腰を下ろし写真に手に取った。
「御園生さん、表情が硬いですね」
 クスクスと笑う仙波さんに付き合い、
「それは言わないでやってください。三十分も写真を撮り続けて、一番まともなのがその写真だったんです」
 笑顔を駆使して答えると、「ほぉ」と言った表情をされた。そして、
「司くん、今日はいつになく饒舌ですね」
 こちらもにこやかに訊いてくる。
 やっぱりこの人、確信犯だし鬼畜だな。
 そんなことを思う傍ら、俺の右隣に座ってロイヤルミルクティーを飲んでいた翠が、盛大に咽ていた。ケホケホと咳き込みながら、翠は仙波さんに視線を送る。が、仙波さんは笑顔のまま首を傾げたのみ。
 そろそろ茶番は終わりにしよう。
 俺はここぞとばかりに笑みを深め、
「えぇ、普段でしたら会話に加わるようなことはしないのですが、必要最低限の情報は開示しておいたほうがいいと判断したもので」
 そこまで話すと、無理に使っていた表情筋を一気に開放する。
 今の言葉で仙波さんと倉敷には意図が伝わったはずだ。わからないのはきっと翠だけ。
 翠は状況を把握できない事態に困惑しているのか、俺の隣でずっとそわそわしていた。
 その空気を破ったのは倉敷だった。
「翠葉、ピアノ借りていい?」
「え? あ、どうぞ?」
 倉敷は翠からもらったスコアを持ってピアノへ向かう。と、椅子に座ってからしばらく目を瞑っていた。
 あぁ……「ピアノさんにこんにちは」だっけか?
 不意に思い出して面白くないと思う。
 今までは、翠が目を瞑ってピアノに挨拶している姿を見るのが好きだった。けど、それが倉敷に入れ知恵されたことと思うと、どうにもこうにも苦いものがこみ上げてくる。
 それが「嫉妬」であることは当に理解していて、今さら翠がその儀式をやめることがないことも了知していて、どうにもこうにも悔しさが胸に広がる。
 自分は翠の婚約者で、どこからどう見ても俺のほうが優位なのに、なぜ嫉妬などしなくてはいけないのか。改めて思うが、恋愛とは厄介極まりない。
 倉敷の演奏が始まると、翠はわずかに肩を揺らした。そして、音に誘われるように席を立つと、ピアノの方へとゆっくりと歩を進め始める。
 そんな様に、倉敷への嫉妬が深まる。と、
「彼の演奏、どうです?」
 俺にだけ聞える声量で仙波さんが訊いてきた。
「さぁ……前にも言いましたが、自分はそこまで音楽に詳しくはないので」
「ですが、音楽をやっている人間はあのとおり。引き寄せられる何かがあるんですよね」
「へぇ……」
 関心など微塵もない。そんなふうに答えたけれど、倉敷の演奏が相応にうまくて人の関心を引くものであることくらいは自分にもわかっていた。
 演奏が終わると翠は拍手喝采。しきりに倉敷を褒め称える。
 倉敷はというと、「そんなこともないけど」的な対応。
「それにしてもこのスコア、指示表記全然入ってねーじゃんか。もっとガツガツ書き込んでくれたほうが弾きやすいのに」
「え? そう……? 手書きだし、見づらくなっちゃうかな、と思って……」
「んなこと言ったら世の作曲家大先生たちのスコアはどうなっちゃうんだよ」
「あ、そっか……。でも、弾きたいように弾いてもらいたい思いもあるのよ?」
「……曲想を奏者に任せるってこと?」
 翠はコクリと頷いた。
「それじゃ、翠葉が思い描いてる曲にはならないけど?」
「そうなのだけど……」
 ふたりはこんな調子で会話を続ける。
 共通の趣味や話題があると、こんな会話ができるんだな。
 そんなところにまた嫉妬。
 俺と翠に共通の趣味はないし、共通する話題も乏しい。ゆえに、ふたりでいても会話がないことが多かった。
 その状態を苦痛に思うこともないからとくに問題視してこなかったが、倉敷と話している翠を見てしまうと、会話がないことに問題があるような気がしてきて悶々とする。
「じゃ、出来上がったらまた連絡して。そしたら取りにくる」
 もう来るな。目障りだ……。
 そう思うと同時、翠も郵送する旨を伝える。と。
「いい。取りにくる」
 倉敷は一歩も譲らず、翠はそれを了承した。
 もう二度と会いたくないのに、また会うことになるのか。でも、俺の知らないところで翠に接触されるよりはまだまし……。

 隣からピピッと電子音が聞えると、
「さ、聴音の時間です」
 仙波さんがノートを取り出しピアノへと向かった。
 代わりに、翠と倉敷がソファへ戻ってきて、小節の区切りのみが記入された五線譜を用意する。
 なんで倉敷まで、と思ったのは俺だけではなかったようだ。翠も不思議そうな面持ちで倉敷を見ていた。すると、
「俺もやる」
 倉敷は一言だけ口にして、すぐに意識をピアノの方へ向けた。
 仙波さんが、
「四分の四拍子、G-dur(ゲードゥア)。……一、二、三、四――」
 ふたりは五線譜に視線を落とし、鳴る音ひとつひとつ書き記していく。
 八小節ほどの短いメロディを何度も何度もノートに記し、二十五分経つと答え合わせ。
 それが毎度のこと。
 しかし、このレッスンが始まってから、翠が聴音で間違えることは一度もなかった。
 翠のネックが楽典だとわかっているのに、ソルフェージュのレッスンは前半後半三十分ずつで区切られている。
 そのレッスン方法に、合理性に欠けていると何度となく思ってきた。
 俺が講師なら、得意なものはさらう程度で、苦手なものに時間を費やすのに。
 そんなことを思いながら本を読んでいると、宿題に出されていた楽典の答えあわせが始まった。間違えた場所の解説や似た問題での復習を終えると、
「だいぶ間違いがなくなってきましたね」
「先生のご指導のおかげです」
「いいえ、苦手なものでもきちんと取り組む御園生さんの努力が実を結んでいるんですよ。だからつい欲が出てしまうんですよね。次の課題は少し難しいものを用意しました。わからないところは飛ばしてもいいですし――」
「それなら。問題の写真添付してメールくれたら、俺がヒントなりなんなり与えるけど?」
 は……? 倉敷は講師でもなんでもない一介の芸大生だろ?
 しかし、それはグッドアイディアとでも言うかのように仙波さんは請合う。
 戸惑う翠に、
「スコアの対価として、そのくらいさせてよ」
 倉敷はゴリ押しを始めた。
「でも、スコアといっても手書きだし、たかだか私のオリジナル曲だし……」
「そーこっ! 自分を卑下しない。俺はあの曲すげー気に入ってるからスコアが欲しいって言ったわけだし」
 翠は何か思うところがあったのか、小さな声で「善処します」と答えた。
 その言葉が倉敷の申し出の「了承」を意味したのかは謎。けれど、倉敷と仙波さんはそう解釈したらしい。
「では、今日のレッスンはここまで」と帰りの身支度を手早く済ませ、「また来週」と言い残してミュージックルームを後にした。

 翠が教材を片付けているのを見ながら、
「楽典、苦手なの?」
 翠は今日習ったばかりのプリントを見ながら、
「ちょっとね……。レッスンを受けるようになってだいぶ苦手意識はなくなってきたんだけど……」
「楽典なら俺でも教えられるんだけど」
 正直、実技よりも楽典のほうが得意だったと言ってもいい。
 翠は鳩が豆鉄砲でも食らったかのような顔で俺を見ている。
「小六までピアノ習ってたって言わなかったっけ?」
「聞いてないっっっ。教本はっ!? どこまで習ったのっ!? 何を弾いていたのっ!?」
 迫る勢いてたずねられ、
「食いつき良すぎないか?」
「そりゃ食いつきもするでしょうっ!?」
 いや、よくわからないけど……。
「インヴェンションとシンフォニアは全部終わらせた。ツェルニーは四十番後半、ソナタアルバムを二冊終わらせたあとは、母さんの好みでショパンやドビュッシーを弾いていたけど、テクニック面は問題なくても情感がどうのとか言われてまったく理解できずにやめた」
 翠は何を思ったのか、「うう」と小さく唸る。
 何に対して唸ったのか考える。と、ひとつだけ心当たりがあった。
 翠はバッハが苦手で、未だシンフォニアに悪戦苦闘している。たぶん、そのあたりを悔しがったのだろう。
「ツカサはピアノを弾くだけじゃなくて楽典も見てもらってたのね?」
「むしろ、楽典と和声のほうが得意だった。その黄色い表紙の本なら、小四までにマスターした。読み返して勘が戻れば問題なく教えられると思う」
 だから、倉敷になんて訊くな……。
 そんな思いで口にしたわけだけど、翠は前回出された課題を用意し始めた。
「これ、解ける? 大学の入試問題なのだけど……」
「やってやれないことはないと思う」
 言うと、翠は自分のミュージックノートを俺に差し出した。
「じゃ、俺がこれを解いている間、翠は学校の課題やってて。あとでチェックするから」
 腕時計のタイマーをセットして問題に取り掛かる。
 ピアノをやめて六年経つが、記憶の取り出しは割とスムーズだった。特段難しいとも思わない問題を、一問一問解いていく。その傍らで、翠がこちらをちらちらと気にしているのがわかった。
 翠は、音楽の一般常識とも言える楽典の何が苦手なのか――
 そんなことを考えながらすべての問題を解き終えた。
 互いに答えあわせをする最中、翠は頭を抱えてソファへ転がった。
「翠……?」
「あ、ごめん……」
 身体を起こし、
「すごいね、ツカサ。全問正解。問題なく私を教えられるレベル」
「なら、あの男に訊かずに俺に訊けば?」
 嫉妬を露にすると、それを悟った翠はすぐに了承してくれた。
 これで、倉敷と無駄に連絡を取る事態は避けられる。
 ピアノなんて習ってなんの得になる、と疑問しか抱かなかったが、役に立った。
 自分が習っているのだから道連れに、と俺を引っ張り込んだ姉さんに若干感謝の気持ちが芽生えなくもない。
「じゃ、今日はここまで」
「はい。今日もありがとう」
 教材を片付け始める翠に、
「それ……」
「え? どれ?」
 翠は教材の何かを指していると勘違いし、手に持っているものを俺に見せる。
「礼なら言葉じゃなくて――」
 ワンピースのピンクを受けて、若干血色がよく見える唇に視線を固定する。と、翠ははっとしたように、
「防犯カメラがあるから無理っ!」
 顔を真っ赤にして拒絶した。
「じゃ、あとで」
 ゲストルームの前でキスしてもらおう――
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