ハンナの足跡
 ジムから帰って、アパートの角を曲がると、捨て猫みたいに僕の部屋の前に腰掛けている女が居た。あのときの、あの女だと、僕はすぐに気がついた。
 「何の用ですか、人の部屋の前に座り込んだりして。」
 僕が牽制する意味で、先に言葉を掛けると、女はビックッとして、僕の方を見上げた。その日は泣き顔ではなかった。パッと立ち上がって、背筋を伸ばし、僕の目を真っ直ぐ見た。
 「すみません、この間、迷惑、掛けてしまって、ご挨拶しなきゃと思って。私、本当に嬉しかったんです。ありがとう。」
 女は深く頭を下げた。僕は恐縮して、困った顔になった。それ程大した事などしたつもりはない。まだこの子に対する警戒心は解けていないので、僕は不安で仕方なくなった。
 「あの、そんなお礼なんてされる程のことはしてないよ。いいから頭上げな。こんな遅い時間に一人でここまで来たのか。危ないよ。早く家に帰りな。」
 僕は子供に話しかけるような調子だったが、内心、早くこの場から去って欲しい気持ちで一杯だった。
 「いえ、今日は、私の、ボス、貴方の事を話したら、挨拶をして来いと言われて、それで、私、ここへ来た。ボスは話の分かる人。私のお父さんみたいね。」
 女は西島がいつも僕に向けるあの人懐っこい笑顔で、僕を見た。僕の事を上司にまで話したなんて。このまま追い返してしまうのも問題があるのかと思ったが、もう家には入れたくなかったので、僕はこう切り出した。
 「仕事にはまた復帰できたの。あんまり無理したらいけないよ。」
 「はい、もう大丈夫。貴方に元気をもらった。今日は仕事お休みね。私、貴方と少しお話したいよ。いいですか。」
 
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