ハンナの足跡

　散策を終えて、僕は清々しい気持ちで、小さな城の主になったつもりになって、アパートのドアを開けた。部屋に誰も居ないことに改めて気付き、ひとり微笑んだ。少年が誰も知らない隠れ家に来たときのように。
　しばらくテレビを付けたまま、雑誌を読んだりして、寝転んでいた。陽は大分前に落ちてしまい、辺りはすっかり暗くなってしまっていた。僕は仕方なく明かりを付けた。すると、静寂を破るように、遠くの方から、ヒールの慌しい音が聞こえてきた。ヒールは力強くアスファルトを叩き、前へ前へと進んでいるようだった。音がどんどん近くなってきて、女性の荒い息遣いも混じった。足音と息は、アパートの前の角で曲がった。近所に住んでいる人が急いでいて慌てて帰ってきたのかと思い、油断し切っていた僕は、次の瞬間、金縛りにあった。足音は僕の城の前で止まった。数秒間でいろいろな事が頭を駆け巡ったが、今は特定の彼女なんて居ないし、追い詰められる程ひどい別れ方をした女性もいないと自信があった。なのに動揺していた。慌しくドアを叩く音と女性の声が続いていた。僕は息を呑んだ。身体は全く動かなくなっていた。動くときを待っているかのようでもあった。しばらく頭が真っ白になっていたので、ドアの音しか聞こえていなかったのが、女の声が聞こえるようになっていた。
　「お願い、開けてください、お願い、助けてください、」
女は息の切れた声で、ドアを小刻みに叩き続けていた。時々後ろを振り返っているようだった。そのうち、涙も混じって、悲痛な叫び声に似た様子になってきた。僕は後先考えずに、ドアの方へ近づいて行ってしまった。