ハンナの足跡
 「ごめんなさい、私、急に入って来たりして、失礼ね。迷惑。話を聞いてもらったら、少し落ち着いた。どうもありがとう。帰ります、仕事、あるし。」
 そういって、また突然、女は席を立った。僕は何だか悔しい気持ちになって、こう切り出していた。
 「仕事って、さっき言ってたどうしてもやりたくないって仕事?そんなにやりたくないなら、戻らないで、サボってしまえよ。君みたいな子なら、他に仕事する場所探せるんじゃないかな、焦らなくても。そんな精神状態で戻ったって、上司だって困るんじゃないかな、第一、仕事できるような状態じゃないでしょう、今の君は。」
 「そうじゃないの、私、どうしても帰らないといけない。私が帰らないと、私の家族、全員困ってしまう、生きられない。こんなことは、初めてではないの。いつもの事と、皆そう思ってるはずよ。必ず戻らなければならないこと、知ってるから。ありがとう、貴方、やさしいね。温かい気持ち、懐かしい。戻ってがんばれるよ。ありがとう、ありがとうね、」
 そこまで話して置いて、勝手に入って来て、勝手にまた突然帰るなんて、卑怯じゃないか、僕はそう思ったが、こういう女性は関わると何があるか分からないので、自分の身を優先してしまい、そのまま出て行かせてしまった。彼女の話が気になって、追いかけたい気持ちと、自分の身を案ずる気持ちとが葛藤した。ドアの前で数秒ぼんやりして、その後すぐ、窓の所まで駆け寄った。僕の部屋は一階の角だったから、彼女の後ろ姿がよく見えた。アパートの角を曲がるとき、彼女の横顔が見えた。口元を手の甲で拭いながら、涙を堪えるようにして、足早に去っていった。
 その日は見知らぬ女のせいで、眠れなかった。からかわれたようで、悔しかった。それでもやはり、何事もなくやり過ごせた事に安心した。気持ちと頭が落ち着いた所で、ふっと眠りについていた。
 
 
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